01-05

【デザイン科担任】
 高梁工業高校2年目が無事終了し、私は工芸科3年生を送り、3年目には何と、デザイン科2年の担任を仰せつかりました。全員女子のクラスで、新採用の井原を思い出させてくれます。授業は前年どおり、2年生4クラスは、「倫理社会」。3年生4クラスは「政治経済」でした。週の持ち時間は合計16時間ですから、そんなにハードではなかったです。オール女子のデザイン科だけでなく、他の男子クラスも、授業ではもう「読み聞かせ」は必要ありませんでした。去年の苦労が嘘みたいです。一時は本気で転職を考えましたが、断念してよかったです。
 担任クラスは、また井原時代のように穏やかなクラスです。違うのは、昼間だということと、クラス内に、それぞれ得意分野を持つリーダーがいたということです。
 お勉強が一番の子は、出しゃばらず、いつもしっとり穏やかにふるまって、クラスメートから愛されていました。M恵子さんでした。学級委員に立候補したのは、お勉強はイマイチでも、リーダーシップ抜群で、誰とも真剣に話し合って合意を取りつける才に恵まれているK真知子さんでした。いろいろな催しを企画するの得意な子もいました。チラシを作るときなどのデッサンなどは、デザイン科ですからもちろん全員得意でした。
 年度はじめのホームルームで、まずクラスから「先生、班を作らせてください」と提案がありました。もちろん即了解で、8人づつの5班ができました。班ごとに、役割が決まり、班長も班で決めました。ほとんど忘れましたが、「学習班」「リクレーション班」「行事班」「厚生班」…とかでした。
 学習班は、定期考査の前には、全科目の先生を訪問して、いわゆる「ヤマ」を聞き出し、それを冊子にして全生徒に配布して、「ここだけは最低でも押さえるように」と徹底して、おかげで学年を通じて赤点はお目にかかることはなかったです。この「高梁工業方式」はその後の勤務校でも実施して大好評でした。
 リクレーション班は、「今週の歌」とかいう時間を朝のショートホームルームに設けて、週替わりで合唱をしました。私は歌の提供を頼まれて、大学ボート部の愛唱歌から上品なものを1つ選んで提供しました。題を忘れていたので、仮に「女学生ソング」と名づけて、これが定着しました。彼女たちは卒業までこの歌を好んで歌っていました。
♪「女学生ソング」
1,
町中歩く女学生 3人並んだその中で
一番ビューティーで目につくは
色はホワイト 目はパチリ
口元しまって くれないに
溢れるばかりの 愛らしさ
僕のワイフになるならば 僕はこれから勉強して
ロンドン、パリーを股にかけ
上に上ある大学を 優等で卒業したときは
彼女は他人の妻だった
残念だ、残念だ、残念だと思ったら また探せ

2,
町中歩く女学生 3人並んだその中で
一番醜く 目につくは
色はブラック 目はギョロリ
口元開いて だらしなく
溢れるばかりの イヤらしさ
俺のワイフになるならば 俺はこれから強盗して
網走、巣鴨を股にかけ 
上に上ある刑務所を 優等で脱獄したときは
彼女はやっぱり妻だった
残念だ、残念だ、残念だと思ったら また探せ

 花も恥じらう乙女たちが、この歌を愛してくれたことが、私にはとても不思議に思えます。修学旅行のバスの中でも歌っていました。この歌の歌詞をきちんと思い出した私の記憶力も大したものだと思います。
 秋の文化祭は、この年は高梁市民会館で盛大に催されました。それまでこの学校では文化祭はなくて、作品発表を行う「展示会」というのがありました。私と同期に赴任した徳山容(やすし)さんという新卒の先生が、生徒会活動にずば抜けた才能を発揮されて、この年から、「展示会」を「文化祭」と名称変更しました。私はこの学年が卒業したあとの1973年4月には、県南東部の備前高校へ転勤になりますが、そこで7年勤務した後、80年に岡山工業高校へ転勤すると、そこで徳山先生と再会します。
 文化祭は2日の日程で、初日を市民会館で各クラスの出し物を発表し、2日目には学校で従来と同じスタイルの「展示会」をしたように記憶しています。放送部も大活躍で、市民会館ステージ横2階の司令室にいて、舞台係とトランシーバーで連絡を取りながら、緞帳の上げ下ろし、スタンドマイクの上げ下ろしなど、プロの劇団のようなあざやかな活動ぶりを見せました。舞台中央のスタンドマイクは、司令室でスイッチを入れると自動的に床の小さな蓋が開いてすーっと上がってきます。それが面白くて、暇さえあれば、部員たちと競争してスイッチを入れて遊んでいました。私はといえば、放送室で部員を手伝うかたわら、クラスの発表する舞踊にも出演して、「竹田の子守歌」を生徒と一緒の“おてもやん”のような扮装で踊りました。前年が、体育祭のカルメンでこの年が“おてもやん”と、女装づいています。
 修学旅行の引率は、私の在職期間(38年)でこのクラスが一番手がかかりませんでした。就寝前の点呼で部屋を訪れると、全員きちんとパジャマに着替えて、お布団の前に正座して点呼を受けました。日ごろの班活動がここでも生かされて、規律正しく集団行動ができました。行き先はほとんど忘れましたが、西伊豆の堂ヶ島灯台に寄ったことだけ覚えています。苦労がなかったために記憶も乏しいのでしょうか。
 この修学旅行の少し前から、私は運転免許取得のために、自動車教習所へ通っていました。授業を受け持つ3年生の男子(野口君たち)とともに入所しましたが、彼らはまったく補習を経験しないで、どんどんステップアップしていきます。私の30歳という年齢はさほど高齢でもないですが、不器用な人で、どの段階でも数時間の補習を受けました。特に2段階から3段階へ上がるとき何時間も受けました。やや高齢の指導員は、「時間をかけるほうが安全運転できて、将来のためになるよ」と慰めてくれましたが、あまり嬉しくありませんでした。私の専属指導員は凄いファシストで、私はすっかり萎縮していました。忘れもしない「勘藤悦夫」という名前です。今思い出してもムカつきます。修学旅行中は、教習所はいわば「公欠」で、勘藤の顔を見なくてすみましたが、いよいよ最終日になって、ヤツにまた会うかと思うとドキドキしてきましたが、ここで、「そうだ!恨みに報いるに徳を以てすだ」と、彼にお土産を買うことにしました。「エサで釣ろう」作戦です。修学旅行から帰って、早速教習所で勘藤に渡すと、機嫌よく受け取ってはくれました。それから指導がやさしくなったわけではありませんが、3段階目になって無線教習の時間になると、私は俄然元気になり、運転ものびのびとできました。一度など、Sカーブを通過するとき左後ろの車輪が溝へ少しだけ落ちたのですが、とっさにギアをローかセコにして「えい!」と踏み込んだら復帰したので、そのまま知らぬ顔で運転を続けました。管制塔から見ていた指導員(勘藤ではなかった)が、「大森さん、今日の運転はとても滑らかです。この調子ですよ」と言ってくれました。ホッとしました。そうして生徒たちにはかなり遅れて、教習所を卒業しました。その後直ちに、当時は岡山市郡にあった「運転免許試験場」に学科試験を受けに行きました。教本をそれはそれは何度も読み返し、ほとんど丸ごと頭に入れていましたので、ほぼ満点のできで合格しました。その後、中古の車を買い、私のマイカーライフがここから始まります。
 デザイン科を担任している間に、ボート部の先輩で、当時、岡山市教育委員会に勤務していた吉廣俊三先輩から、ボートの審判員の試験を受けるよう勧められました。大阪で1日講習を受け、その後試験を受けて合格し、正式に「日本漕艇協会認定審判員」になりました。それ以後は、岡山市でボートの試合があるたびに、「岡山県漕艇協会」から校長宛に派遣依頼が来て、そのたびに私は出張するようになりました。審判員にはスタート地点で艇をつかまえていたり、ゴール地点で着順を見届けるスタッフも含まれますが、私は一応「審判長」ということで、各クルーが各レーンに勢ぞろいしたことを確認して、スタートの号令“Ready Go!”をかけます。それからモーターボートで後を追跡し、すべてのクルーがゴールインするのを見届ける役でした。
 岡山県漕艇協会の理事にも名を連ねることになり、いよいよボートの世界へと一歩を踏み入れたのです。
 デザイン科3年が卒業して、1973年4月にはボート部のある県南東部の備前高校へ異動します。