01-04
【悪戦苦闘の日々からの解放】
高梁南高校は私が赴任した翌年(1070年)に、校名が高梁工業高校と変更になりました。家政科3年が卒業して、女子クラスすべてがデザイン科となったためです。
私の担任クラスは、2名の原級留置者(落第者)の除いて3年生に進級しました。原級留置(落第)が単なる脅しでなくて現実的にあったという認識が生徒にあったのかなかったのか、新・工芸科3年はよくまとまった良いクラスになりました。私が怒鳴って何かをさせるようなことは学年を通じて一度もなかったです。授業態度が改善されたばかりでなく、体育祭や文化祭などの学校行事にも積極的に取り組み、体育祭では特に、その年に大阪で開かれた万国博覧会(万博)の「太陽の塔」のオブジェを作って、好評を得ました。私は私で、デザイン科の女子に人気抜群で、校内を歩いていると、あちこちから「おおもりせんせいー」と声がかかるほどでした(ほんとですよ。笑)。わがクラスの男子がそれを見ては「せんせいー、人気ナンバーワンじゃのう」と冷やかしていました。このときは、デザイン科2年の仮装行列で私はカルメンの扮装をさせられて、トラックを一周しました。薔薇を一輪口にくわえて「ハバネラ」を歌いながら踊るシーンです。担任クラスの仮装行列は、当時全国的に大問題になっていた公害で奇形になった被害者の扮装したり、交通事故続出で学校の隣にあった友近病院に入院した全身包帯姿で松葉杖をついた患者に扮したりで、それはそれはリアルなものでした。プラカードにジョークで「友近病院付属高梁工業高校」と書いてありました。アイディアは、すべてクラスが企画して実行したもので、私はまったくタッチしていませんでした。。
卒業式は、当時まだこの学校には体育館がなくて、工芸科の実習室(超広い)が会場になりました。今は一々卒業生の名を呼び上げませんが、この学校では、担任が1人1人の名を読み上げて、全員起立するというスタイルでした。私は、名簿を見ないで1人1人の顔を確認しながら名を呼びました。ところが、ここで大失敗をやらかしました。1番「家○」君、2番「一○」君、3番「井○」君、4番「植○」君、5番「上○」君……と進んで、30番台に入り、「藤○①」君、「松○」君、「間○」君…と最後まで呼び上げました。一瞬、職員席にざわめきが走ったように感じました。「藤○①」君の次の「藤○②」君を飛ばしたのです。1人1人顔を見ながら呼び上げましたので、後部になるにつれ、顔が見えにくい角度になったためか、藤○①君のすぐうしろに松○君が見えて、藤○②君が見えなかったのです。さいわい藤○②君が機転をきかせて、黙って立ち上がってくれて、事なきを得ましたが、その後が大変。教室へ帰って、私は土下座をして彼に謝りました。保護者にも平謝り、先生方にも深くお詫びして、さらに、午後には彼の自宅までお詫びの品を持ってきちんと謝罪に行きました。さいわい、許していただけました。今思い出しても、顔から火が出る忸怩たる思いです。子どものころよく、親戚のおねえさんから、浩ちゃんはおっちょこちょいだ」と言われていましたが、そのとおりです。この過ちを中和してくれたのが、卒業生が退場するときのBGMでした。これはお手柄でした。それまでのBGMは「蛍の光」が定番だったのを、ヴィヴァルディの「四季」~「春・第1楽章」を使うよう、私が提案したのが採用されて、これになりました。大変おしゃれだと好評でした。このアイディアは井原市立高校で例のTK先生が提案されて、同校で実施されたものをそっくりパクったものです。
この学校では、卓球部と放送部の顧問をしました。卓球部の思い出としては、備北大会が高梁市で、新人戦が津山市で、県総体が岡山市で開催されて、私と相顧問が交代で引率しました。特に思いで深いのは津山での新人戦でした。会場は美作学園で2日間ありました。1泊したため、夜の旅館でのひとときがとても楽しかったです。時期が1月で、大雪が積もったこともありました。あまり強いチームではなくて、団体戦はほとんど予選落ち、個人戦で2回戦、3回戦へと勝ち残る選手がときにいたくらいです。井原で家庭教師をしていた隣家の男の子(川田亨君)が矢掛高校に入り、卓球部だったので会場でよく会いました。彼はとても強くて、決勝戦に出るくらいの活躍ぶりでした。井原当時は、体格も小さく、うちへ遊びに来て、母に見つかると、恥ずかしがって私の後ろにかくれて蝉が止まるようにくっついていました。その子が高校生になって立派に成長していました。
放送部の顧問としてはたくさんの思い出があります。木造校舎の屋根裏に一応スタジオがあり、そこが部活動の場所でもありました。頭を打つような低い天井の部屋でした。この部屋は電気科が管理していましたが、責任者の先生(伊藤寿先生)が放送部にとても好意的で、部員たちに自由に使わせてもらえました。体育祭や文化祭などの大行事だけでなく、朝礼や各種集会時の放送を部が担当していました。顧問の私も部員に混じって機材のセットをしたり、時にはアナウンスもやりました。このおかげで、春の入試のときは、部員は登校禁止のため、私が試験室監督をはずしてもらって、アナウンサーになりました。滑舌や発声は大丈夫です。高校では演劇部でしたから、腹式呼吸もできたし、アナウンスも難なくできました。
これについては、早期回想があります。小学生のころ、妹と2人で隣町の伯母さん(父の姉)のうちへお泊まりに行きました。広い座敷に伯母さんと妹と私と3人が川の字になって寝ました。伯母さんが「浩ちゃんは、大きゅうなったら何になる?」と聞きました。私は「アナウンサーになる」と答えました。楽しい楽しいひとときでした。
実際にはアナウンサーにはならなくて、社会科の教師になり、そして退職後は講演活動をしていますが、やはり「おしゃべり」とは深い関係があります。高校演劇部で同期だったYA(山県明宏)君は、大学卒業後、岡山市の民放RSKのアナウンサーになりました。文化祭の出し物に共演したこともあります。彼の出演番組がラジオから流れるととても懐かしかったです。向こうは私のことなどすっかり忘れているでしょうが。
放送部員で、女子はみんなデザイン科で、男子は電気科と工芸科でした。その電気科でのNS(野口三郎)君と工芸科のFS(藤森修市)君(担任は私)はとても仲良しで、ともに写真部と掛け持ちでした。当時はポップス系では、イージー・リスニング・ミュージックが流行っていて、特にポール・モーリア楽団やレイモン・ルフェーブル楽団の曲を好んで聴いていました。「アランフェス協奏曲」「シバの女王」「恋は水色」などは大ヒットしていました。私もその影響を受けて、これらの楽団の曲が大好きになりました。今でも聞いています。番組製作に使う音楽を、レコードを買うと高くつくので、放送室の大きなオープンリールテープレコーダーをタイマーでセットして授業時間中などにFM放送を録音していました。授業の開始や終了のチャイムが自動的に入ると、アンプが作動して、その時間に録音中だった音楽が全校に流れて、大慌てでスイッチを切りに放送室へ走ったりしたことが何度があります。それも冷や汗ものの失敗談です。
この2人とは卒業後もずっと師弟を超えた友だちづきあいが続いて、年賀状のやりとりもしています。秋のお祭のときは、部員たちの家に次々に招かれて、ごちそうになり、泊めていただき、徹夜でトランプのセブンブリッジなどをやって、翌朝、全員寝不足で、それでもきちんと学校へは行きました。当時、伯備線にはSLが走っていて、新見近くの鉄橋を3重連が通過するのを撮影するために全国からマニアが殺到していました。彼らも工夫を凝らしたスナップショットをたくさん撮っていました。自分たちで現像してプリントして額にして自慢し合っていました。私も力作を1枚もらい、今もわが家で大切にしています。数年前に藤森君からEメールが来ました。野口君とのツーショットが添付されていました。ちらりと見ただけでは誰だか判別できなくて、じっくり見てやっと昔の高校生の面差しを思い出しました。60歳を過ぎていますから、街ですれ違ってもお互い気づかないでしょう。彼らが結婚するまではしょっちゅう就職先の大阪へ招かれては、寮に泊めてもらったり、車で京都や奈良へのドライブにも案内してもらいました。野口君は門真市の寮で、梅雨時分でしたかビアパーティーがあると、私を「姉婿」と偽って寮に泊めてくれました藤森君は箕面市の寮で、そこは特に許可を必要としなかったらしく、2人部屋の床に3人くらい転がり込んで雑魚寝をしました。野口君とその仲良しの中山憲之君と難波雅弘君と3人では北アルプスへも登りました。槍ヶ岳山頂で3人で拝んだご来光は、今も瞼に焼き付いています。