01-03
【悪戦苦闘の日々】
勉強に取りかかる前の10分ほど、小説の読み聞かせをして好評だったことを思い出したのです。それも続きが気になる探偵小説がよかろうと、エラリー・クイーンの「許されざる結婚」を選びました。これは大成功で、その後のお勉強がずいぶんスムーズに進みました。調子に乗って、小説以外に伝記物なども読んでいると、隣のお台所で炊事をしているお母さんにも聞こえて、お茶を運んでこられたときに、「いいお話ですねえー」と涙ぐまれていました。
当時勤めていた井原市立高校に、新採用で同時に赴任した先生の中に広島大学教育学部を出られたNS先生という体育の女性教師がいました。少し男勝りでしたが私と気が合いました。彼女と同じバレーボール部の顧問にもなり、岡山などでの定時制高校の試合には2人で引率していきました。職場でもよくおしゃべりもし、休憩時間などには寸暇を惜しむように、校庭の隅や廊下でテニスボールを手で打ち合いしたりして、遊んでしました。彼女は学生結婚していて旦那さん持ちでしたが、まるで独身の人のように天真爛漫で気さくな方でした。家付き娘さんで、旦那さんはご養子です。おうちが鴨方町(今の浅口市)にあり、よく招待されました。研一ちゃんという男の子がかわいくて、私にもよくなついてくれて、一緒に遊びました。この子はオープンリールのテープをほどいて引っ張るのが大好きで、私がその相手をしてあげると、それはもうはしゃいではしゃいで、ご機嫌でした。田植えのお手伝いにも行き、蛭に吸いつかれたこともあります。旦那さんはあまり歓迎したくなかったのでしょうか、挨拶されるだけで、ほとんどお話はしませんでした。その代わり、ご両親、特にお父上が大変私に好意的で、文学のお好きな方で、そのときはレマルクの「西部戦線異状なし」を勧めてくださいました。彼の口癖は、「先生(←私のこと)、あれは詩ですなあー」でした。文庫本でじっくり読みました。後にテレビで映画も見ましたが、ラストが原作と違っていました。
その彼女はアガサ・クリスティが好きで、私には「アクロイド殺人事件」を勧めてくれました。私はこの1冊で探偵小説にはまりました。このどんでん返しの結末の手法は、おそらくその後の推理物の1つの典型になったのではないかと思います。犯人は最も疑わしくない人です。当時、私は短歌を詠んでいて、次の一首がこれのことと関係しています。
♪ 弁護士か医師か執事か秘書の中に真犯人の8割はおり ♪
エラリー・クイーンも勧めてくれて、「許されざる結婚」「Xの悲劇」「Yの悲劇」「Zの悲劇」と、読みあさりました。
井原市立高校は開校当初、教員室と事務室が独立していなくて、教員席の横に「事務」コーナーがあり、そこに事務長さんと清心女子大学を出たばかりの女性事務員さんが座っていました。私は若造ですから、先生方の末席ということで、その女性事務員の隣でした。お嬢様育ちのおっとりした方で、若い2人のこと、あれこれやの話題で盛り上がっていましたが、1年勤めて結婚のために退職されました。その方の父上が、当時旅館に同僚男性教師とルームシェア(下宿)していた私に、例のクリーニング屋の家庭教師付&まかない付き下宿(アパート)を紹介してくれました。彼女の次には、少しゆっくり時間をかけて花嫁修業をなさっている女性事務員さんが見えました。その方とも馬が合い、文学のお話でいつも盛り上がっていました。私がしょっちゅうクリスティーやクイーンの話をするため、その女性事務員さんは、私のことを名探偵にあやかって「ポワロ」と呼んでいました。その方も長めの花嫁修業が実ったのか、良縁があって嫁いでいかれました。
高梁南高校で、授業が始まってもずっと騒がしい教室で、私はまずエラリー・クイーンの小説を良く通る声で読み始めました。すると前のほうの席からだんだん静まって、ふと気づくと教室全体が静かになっているのです。これはいけると、朗読を10分くらいで打ち切って授業の本題に入ると、生徒たちが聞いてくれているのです。読み聞かせというエサで釣っているのですから、邪道には違いありませんが、藁にもすがりたいこのときは、天の助けかと思いました。当分、これを続けて何とか授業に取り組めるようになりました。
この学校では、各科ごとの職員室と別に本館1階に「普通科職員室」がありました。私はそこではなくて、3階の図書室に配置されました。授業が何とか成り立っていくうちに、休憩時間や昼休みには、何人かの生徒が私に寄ってくるようになりました。図書室のカウンター越しにいつも何人かの生徒と世間話をしていました。担任の工芸科2年だけでなく、電気科からもまた3年生も来てくれます。自分のクラスの権太どもとは別に、こうした真面目な生徒たちとも次第に親密になっていきました。
大学の恩師に会う機会があって、普段の悩みを聞いてもらいました。そのとき恩師は、カウンセリングを学んではどうかと、1冊の本を借してくれました。ロロ・メイの「カウンセリングの技術」でした。読むと、目から鱗でした。当時はこういう世界があることを知りませんでしたが、今思えば、ロロ・メイは新フロイト派でしかも実存主義の影響を受けている人でした。この本のおかげで、一時は転職まで考えましたが、現実から逃げない決心ができました。
この学校は学区が広くて、交通機関としては南北に伯備線が通り、後はバスだけです。オートバイ通学が認められていた時代ですので、免許の取れる年齢になった生徒は当然のように教習所へ通って免許を取ります。あとは通学許可をもらってバイク通学です。まあ、事故や違反の多いこと多いこと。そのたびに謹慎指導です。親が呼び出されて、校長から謹慎申し渡しを受けます。担任は一々同伴します。そして普通の授業の他に、謹慎生徒の特別指導や家庭訪問で大忙しです。一件終わるとまた次の違反とてんてこ舞いでしたが、これにも次第に慣れてきました。
自分の授業は、だんだんと朗読なしでも進められるようになりましたが、油断するとまたザワザワします。私も大学時代はボート部の強者でしたから、時には「オンドリャー、静かにせんかー!」と一発食らわすと、教室は静まりかえりました。生徒たちは「せんせーも怒鳴るんじゃなー」とびっくりしていました。
わがクラス担当の数学の先生が授業に苦慮されていました。今ふうに言うと、本気で「権力闘争」をしていました。彼が「絶対に落第させる」と息巻くと、生徒たちの一部が「何を、やれるもんならやってみー」と応戦していました。当時は数学など必修科目があって、1科目でも不認定だと留年(落第)になりました。私の担当する倫理社会と政治経済もそれぞれ2単位ですが、必修でした。生徒もゲンキンなもので、「必修科目」はそれなりに一目置いて、落とさないように気をつけていたようです。数学の先生にかなり反発していた生徒たちもほとんどが何とか合格ラインに滑り込みましたが、残念ながら2名が不認定になり留年となりました。その子たちは翌年、1学年下のクラスへ入りましたが、もとのクラスとのつながりを残しつつ、新しいクラスにも馴染んで、1年遅れで無事卒業はしました。
2名が抜けてクラスは3年生に進級しました。