01-02
【昼間の学校へ転勤】
 6年目にやっと転勤がかないました。備中高梁市にある工業系の学校ということで、打診があったとき迷いました。夜間の勤めも慣れるとそんなにイヤなものでなく、男子生徒が来るようになって、授業も部活動(卓球部顧問)も休日も充実して楽しかったです。引っ越ししたアパートでの親子3人水入らずの生活にもすっかり馴染んで、この生活がなくなることへの抵抗がありました。一緒に赴任した先生の中にTKさんという理科(化学)の女性教師がいました。私より年上の人でしたが、夫さんが岡山大学の地理学の助教授で、小学校へ上がるくらいのお嬢さんがいて、井原市には住めなくて、岡山から毎日通勤されました。岡山から笠岡まで山陽線で、そこから井笠鉄道の軽便(その後廃線になりバス輸送のみになる。現在は会社もなくなった)に乗り換えて、井原までの長い道のりでした。その先生はオペラが大好きで、見物に行かるときはドレスアップして行くお話や、当時のトップ歌手、ソプラノのレナータ・テバルディやテノールのマリオ・デル・モナコのことをよく聞かせてくれました。その年(昭和39年)にはベルリン・ドイツ・オペラの日本公演がありました。そのときのソプラノはヒルデ・ギューデンで、バリトンはディートリッヒ・フィッシャー・ディスカウだったと記憶しています。演目にモーツアルトの「魔笛」やベルディの「椿姫」がありました。「魔笛」ではパミーナ役がギューデンでパパゲーノ役がフィーシャー・ディスカウでした。タミーノ役のテノールは忘れました。その先生は特に「椿姫」がお好きで、何と、劇中の「乾杯の歌」や「ああそはかの人か」を私とデュエットしました。私は高校時代には「芸術」は音楽を選択していて、当時はテノールでしたので、まだ高い声が出ました。放課後、音楽教室であらかじめ音楽の先生にピアノ伴奏を録音してもらっていたテープをかけて、♪リビアーモ、リビアーモ、ネ、リエーチ、カリチ、ケラベ、レザ、インフィオーレ、エラ、フジェボル、フジェーボル、オーラ、シンネー、アー、ボルッタ、リビアームネ、ドルチ、フレーミティ、ケ、スシタ、ラ~~~モ~レ……♪と熱唱しました。「プロバンスの海と陸」は主人公アルフレードの父親が息子に故郷へ帰ろうと歌うバリトンの曲ですが、私はこの曲のほうが歌いやすかったです。この曲は今でも歌詞を覚えていて、ちゃんと歌えます。他に、彼女はシューベルトの「冬の旅」が大好きで、このとき来日していたフィッシャー・ディスカウとピアノ伴奏はジェラルド・ムーアのがいいと勧めてくれて、今もこのコンビのCDを持っていてときどき聞いています。有名な「菩提樹」が入っています。私は、冒頭の「おやすみ」と、途中の「からす」が大好きです。その一部は今でも歌えます。
 高梁へ転勤を迷っていることを、彼女に話すと、彼女は断固と、「絶対に断ってはいけない。ずっとこの町で夜間部に勤めるわけにはいかないでしょう。あなたには将来がある」と強く転勤を勧めてくれました。おかげで決心がつきました。美容院に勤める妹は住み込みで残り、母と私は20キロほど東の総社市に引っ越しました。吉備線の東総社駅から徒歩5~6分の所に2階建てのアパートを見つけました。6畳+3畳+キッチン+風呂&トイレで、私たちは2階の1室を借りました。ここから勤務地の高梁までは汽車で通勤です。東総社から次の総社まで吉備線で3分、総社から伯備線になりますが、接続が良くなくて、ほぼ毎日、直接総社駅まで10数分歩いて行って、そこで伯備線に乗りました。当時は蒸気機関車でたくさんあるトンネルのたびに、大急ぎで窓を閉めていました。40分くらいかかりましたか。高梁南高校(翌年から校名変更で高梁工業高校)は備中高梁駅から徒歩10分くらいの位置にありました。待望の全日制の学校です。学校の編成は、電気科2クラス、工芸科1クラス、家政科1クラスです。家政科は3年生のみで1,2年生はデザイン科になっていました。次の年には家政科がなくなるので、南高校が工業高校になりました。私の担当科目は、2年生の「倫理社会(倫社)」2単位×4=8時間と3年生の「政治経済」2単位×4=8時間、合計16時間でした。
 井原では男女共学になっても女子が圧倒的に多かったのですが、今度の学校はデザイン科と家政科が女子ばかりで、後の科は全部男子でした。井原では教室に行けばそれで授業が成り立ったのに、ここではそうはいきません。新任教師は1年生を担当できれば、クラス運営も授業もずいぶんやりやすいでしょうが、私は2年生と3年生担当です。最初から授業が成り立ったのは、デザイン科2年生と家政科3年生だけでした。その週4時間だけがオアシスで、「この学校に来て良かった」と思える束の間の救いの時間で、後の12時間はオール地獄でした。チャイムが鳴って、教室に入ると、そこは西部劇に出てくるような場末の酒場。カードで遊ぶ人、飲食をする人、小さなグループに分かれて談笑する人たち。学級委員長が「起立、礼」と声をかけると、一応全員が起立のジェスチャーをしてお辞儀のまねごとして着席すると、またもとのまんま。お辞儀も後ろや横を向いたままするヤツもいます。声を張り上げて、「えー、僕が今年この授業を担当するおおも……」と話し始めても、誰もこちらに注目しない。今思えば、それでも数人の生徒はこちらを見てくれていたんです。あとは休憩時間よりも騒がしい。「えらいところへ来た」と、転勤したことを深く反省。TK先生の助言を無視して、井原に留まればよかったと、卑怯未練にも彼女を恨んだりしました。半泣き状態で、気を取り直して、取りあえず教科書を開いて、当日の学習テーマを短く板書しました。全体を見渡すと、ほんとに数人の生徒はノートを取り始めたのです。地獄に仏様がいた。こうなると、まず教室内を静めなければいけません。怒鳴ればおそらくその場は静まったでしょうが、新学期早々にそれはできませんでした。怒声を浴びせて落ち着かせるようにしたのは、かなり後になってからです。数人の生徒はきちんと授業に参加してくれることを確認しつつ、ひと月が過ぎて、5月初めに一日旅行があり、バスで鷲羽山に行きました。バスの最後部席にはクラスの強者どもがどっかと座り、発車するやいなやガイドさんをからかったり、マイクを占領して歌い出す始末。真面目な連中が閉口して、黙り(だんまり)を決めています。担任の私は、何とか一日無事に全員を帰校させないとけない。そこで決心。「よし、権太どもと行動をともにしよう。真面目な連中はもうそれだけで信頼できる。こいつらと一緒にいれば、タバコも吸わないだろうし、喧嘩もしないだろう」と。バスから降りてからはずっと連中に同行しました。悪ガキどもは担任を仲間に引っ張り込んだと思ったのか、どこか誇らしげに機嫌良く行動しました。「これは授業でも」とひらめきました。何か共通して関心を持てることはないか?井原当時、(内緒で)家庭教師をしていたことを思い出しました。例の呼び出し電話のおうちで、中学生の姉と小学生の弟の2人の勉強を見ていました。週3回、各回2時間やりました。勉強に気乗りのしない2人を何とか私に引きつけようと……(つづく)