「自叙伝」目次


大森浩の自叙伝第1章

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【新人教師奮闘】
 私・大森 浩は岡山大学教育学部卒業後、1964(昭和39)年4月から社会科(定年直前は名称変更で「地歴科」「公民科」)の教師を勤めて、2002(平成14)年3月に定年退職しました。
 新任校はその年に県南西部・井原市に創立された昼夜3部制の定時制高校で、ここに5年勤務しました。初年度は1年生の副担任で、翌年から正担任になりました。
 この町は当時、繊維工業が盛んで、主に九州・四国・中国地方から中学を卒業したばかりの少女たちが市内の工場に就職してきました。昼間部の生徒は「早番」「遅番」の2交代勤務で、勤務のない時間帯の午前と午後を週替わりで通学します。私は地元に下宿してかた関係から夜間部勤務となしました。夜間クラスは昼間の通常勤務の人たちばかりですから、毎日午後6時から10時まで登校します。
 当時この町にはJR(当時は「国鉄」)が通じていなくて、私鉄軽便鉄道の「井原鉄道」が笠岡と矢掛と広島県神辺から通じていましたが、あとはその鉄道会社経営のバスが交通手段でした。運賃も高くて岡山方面からはかなり不便で「人事の孤島」と言われていました。ここから転出を望む人は多くても、ここへ転入を希望する人が少なかったためです。ある女性教員は、遠く岡山市内から毎日通勤していました。井原市に定住すると転勤が困難になるからだそうです。そういう人は当然、夜間を希望しませんから、午前/午後を交代する昼間部の勤務でした。市内や隣の笠岡や矢掛から通勤する人は、「午前+午後」パターンと「午後+夜」パターンを週替わりで勤めたように記憶しています。3年目から、市内に下宿していた私は、夜間部専属になりました。それはそれで楽しい一面もありました。当時、三田 明の「みんな名もなく貧しいけれど」や舟木一夫の「定時高校生」という歌がヒットしていました。彼女たちは厳しい生活環境の中で、青春を謳歌していました。♪みんな名もなく貧しいけれど、学ぶ喜び知っている~~~♪と、クラスでも生徒たちと一緒に歌ったりしていました。
 開校3年目から男子生徒が入って共学になりました。繊維会社からも来ましたが、自動車部品工場からたくさんの男子生徒が来ました。私と歳が近いので、休みにはよく一緒に遊びました。鴨方の天文台に行ったり、福山へ足を伸ばしたり、時には、広島まで遠出して安芸の宮島にも行きました。まさに、“メダカの学校”で「いずれ生徒か先生か」そのまんまです。男子生徒の中には、長く工場勤めをしていて年齢が私よりも上の人もいました。私が24歳のとき35歳の生徒もいました。一回りも年上なのに「生徒は生徒」と、人格未熟な私は呼び捨てで呼んでいました。今思うと、顔から火が出そうですが、その生徒(さん)はイヤがりもせず、若造教師の指導にもきちんと応じてくれました。あちらのほうがよっぽど「お・と・な」です。
 担当授業は、初年度は1年生だけですから、私は「地理」を昼夜間3単位×3クラス=9時間という軽い負担で、準備も楽でした。2年目からは2学年と2年生になりますから、1年生の地理9時間のほか、2年生の倫理社会2単位×3クラス=6時間、合計15時間というまあ標準的(まだ楽)な持ち時間になりました。翌年は3学年になり、世界史とか政治経済とかが加わりますが、確か私より2級下の新採用教員が赴任しました。彼は地理が専門だったと思います。教科の分担が替わって、私は2年生の倫理社会と3年生の政治経済を一手に受け持ったように記憶しています。かなり記憶は怪しいです。定時制ですから学年は4年生まであり、日本史も加わりますが、それは新任さんが担当しました。私は定年までずっとヒラでしたが、その人は倉敷青陵高校の校長さんで定年退職されました。
 赴任早々は、同期に採用された理科の先生と同じ下宿で、今ふうに言えばルームシェアしていました。井原鉄道の終点井原駅近くの旅館の離れを借りていました。2人で電気炊飯器を購入して自炊生活をしました。お風呂は何しろ旅館ですから、大浴場を使わせてもらえました。毎日温泉気分です。半年ほどルームシェアしましたが、そろそろお互いのわがままからトラブルが起きやすくなって、私は職場の女性事務員さんの紹介で、その方の近所の大きなクリーニング屋さんの経営するアパートにキッチン付きの6畳の間を、その家の中学生の男の子の家庭教師をすることと交換に、無料で使わせていただけた上に、まかないまで家族に混じって無料でいただけるという、夢のような生活が始まりました。
 わが家の事情がこの時期に激変しました。勤めて2年目の春に岡山市内で病気療養していた父親が他界して、その後、まず母が私の所へ来て同居することになりました。つづいて美容師になっていた妹が岡山市内の店をやめて、井原市内の美容院に職を得て、やはり私の所へ同居することになり、家族が井原市にまとまって暮らすことになりました。父亡き後の、6畳一間に一家が集いささやかな暮らしが始まりました。私個人に関しては、それまでのクリーニング屋さん宅の「まかない付き家庭教師」の「まかない」部分は消えました。そのうち、6畳に3人クラスのは手狭になり、そこから徒歩5分くらいの所にもっと広いアパートを見つけて引っ越ししました。2階建て4世帯構成の2階東側を得ました。玄関の間、洗面所、風呂、キッチン、3畳和室、6畳和室とベランダです。間取りは京間の狭いのでなく、「本間」でゆったりしていました。6畳間には床の間もあって、掛け軸などもかけられました。隣家には以前から家庭教師に行っていました。中学生の姉と小学生の弟を見ていました。そこの奥様がとても親切な方で、当時わが家に電話がなかったのですが、その奥様のご厚意で「呼び出し電話」を快諾してくださいました。職場から電話があると、大声で「せんせー、私立高校からお電話でーす」と叫んでくれました。叫ぶというのをご当地では「おらぶ」と言います。「何を叫んでいらっしゃるんですか?」は「なにゅーおらびょーんでー?」となりますか(笑)。
 相変わらず私は夜間部勤務でした。お昼過ぎに出勤します。徒歩通勤で約10分くらいです。途中に食堂があって、そこで昼食をすませての出勤です。夕食は、生徒は給食でしたが、職員は出前やお弁当でした。私は、母の手作り弁当を母自らランチジャーに入れて歩いて職場まで持ってきてくれました。学校近くで同僚(先輩)教員が見つけては預かってきて、私に手渡してくれました。
 こうして、5年間、井原市立高校に勤めました。