12,子、疾(やまい)病(へい)なり。子路(しろ)、門人をして臣たらしむ。病、間(かん)あるとき曰く、久しいかな、由(ゆう)の詐(いつわ)りを行なうや。臣なきに臣有(あ)りとなす。吾誰をか欺かん、天を欺かんか。且(か)つ予(われ)はその臣の手に死せんよりはむしろ二三子の手に死せんか。且つ、予縦(たと)い大葬を得ざるも、予道路に死なんや。
先生のご病気が重体に陥った。子路が門人を孔子の家臣に仕立てて手伝わせた。ご病気が小康状態になったとき、先生が言われた。「ずっと昔からのことだが、お前の偽善はちっとも変わらないね。家臣がいないのに家臣がいるように偽って、私に誰を騙させるのか。天を騙させるのか。それに偽の家臣に看取られて死ぬよりもいっそ諸君の世話になって死ぬほうが、どんなに気持ちがいいだろう。また、私は立派な葬式をしてもらえなくても、道路で野垂れ死にすることはありえないだろう」。
※浩→中国古代の葬式では、大夫(家老)の身分では、家臣が臨終から葬儀にかけて、種々の役をつとめるように決められていました。孔子はかつては大夫でしたが、隠退して家臣はいなかった。子路は、先生の死を鄭重に扱うために、今や大夫でない先生に、大夫同様のことをしてあげようと、自分の門人たちを臨時に家臣に仕立てて、役割を割り付けたのです。ところが、病気が小康状態になって意識を取り戻した孔子が、「お前はまたやったね、ごまかしを」と、子路に小言を言いました。
先生思いの子路の失敗談ですが、「見栄の子路」というニックネームがつけられそうで、微笑ましいです。孔子としては、偽の家臣に世話をされるよりも、たとえ地味でも、自分の門人に看取ってもらうほうが幸せだったのでしょう。立派な葬式をしてもらえないからといって、まさか野垂れ死にすることもなかろう、と、ここでは門人たちを芯から信頼していることが読み取れます。昔から、「悪いことをしたら、畳の上で死ねない」と言われてきました。今は、ほとんど病院のベッドで臨終を迎えるようですが、昔は自宅のお座敷でお布団の上で、近親者に看取られて最期を迎えるのが、幸せな生涯の幕引きだと思われました。でも、戸外で仕事をしている多くの人は、いつ何時、現場で出先で最期を迎えるかわかりません。わが家は、父は病院で、母は自宅で亡くなりました。父は、ベッド脇に母がいて看取りましたから、幸せな往生だったと思います。私は遠くの職場で連絡を受けて、駆けつけましたが臨終に間に合いませんでした。母は、自宅で、私が出張で留守中に孤独死しました。これは心残りです。出張最終日に虫の知らせでしょうか、予定を切り上げて半日早く帰宅すると、茶の間でテレビの音がします。畳の上に新聞紙を広げたままです。隣の台所に回ってみると、冷蔵庫の前に母が伏していました。炊飯器のご飯が煮えたようで、しゃもじでご飯を混ぜてもとに戻そうとしたとき、息切れたようです。ご飯粒のついたしゃもじがそばに落ちていました。「いつかはこう言う日が来る」とあらかじめ覚悟はしていたためか、自分でも不思議に冷静なふるまいができました。ただちに家の前にある病院に行って、日頃から母が懇意にしている院長さんに様子を知らせて、あとは次々に「なすべきこと」をこなしていきました。おそらく母にとっては望ましい最期だったのではないかと思います。その理由の1つは、そのときの住居が母のお気に入りの借家だったころ。もう1つは、病死でなくて、理想の死と言われる、「ピンピンコロリ」だったから、おそらく一瞬の苦痛もなく逝ったのだと思います。お世話に見えた、町内会長の奥様から、「私もあやかりたい」と言われました。老人ホームのお世話にもならず、嫁のお世話にもならず、看取る人はいなかったとはいえ、幸せな往生だった思います。
私もいつお迎えが来てもいいように、「終活」に着手していかないといけないですが、断捨離ができなくて気にはなります。
また芭蕉の名句を引用します。
野ざらしをこころに風のしむ身かな
芭蕉は、門人の千里を伴い、貞享元年(1684)8月から翌年4月にかけて故郷の伊賀上野に旅をしました。芭蕉41歳のときで、奥の細道への旅の5年前のことです。その旅路で記録した俳諧紀行文が「野ざらし紀行」で、題名は、本文中の最初の句「野ざらしを 心に風の しむ身かな」から来ています。
野ざらしとは“野に晒されたしゃれこうべ(骸骨)”を意味しますが、旅立つ芭蕉の心境はどのようだったのでしょうか。“俳聖と言われ、功成り名遂げてもうやり残したことはない。この旅で野垂れ死にするも本望。”、あるいは、“さらなる俳諧の深みを追求するには、これから幾多の厳しい旅に出なければならない。もしかするとこの旅の途中で朽ち果てるかもしれぬ。”という心境だったのかも…… 。茶道の心では“一期一会”でしょうか。
もっと古くは、西行法師の、
願わくは花のもとにて春死なん
その如月(きさらぎ)の望月のころ
この花は「桜」だと考えられていて、もしも、満開の桜吹雪のもとで生涯を閉じることができれば、美しい最期であろうとは思いますが、筆者はずっと、この「花」は桜ではなく「梅」ではないかと疑っていました。「如月の望月」にいくら暖冬の投じでも桜は満開ではなかろうと。ネットで同じ考えの方がいらっしゃることがわかって、とても嬉しいです。引用します。
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西行法師の有名な歌ですが、この季節になると思い出します。しかし、それと同時に疑問が湧きます。「花」は、ほんとに桜なのか?桜というのが定説のようですが、「旧暦2月15日に桜は咲くのか?梅ではないのか?」という疑問です。桜が3月中に咲き、卒業の花、別れの花になったのは、ここ十数年くらい、21世紀になってからこと。20世紀の日本では、桜は4月新学期の花。「桜咲いたら1年生~」でした。
旧暦2月15日は、今の3月下旬になります。平安時代は3月下旬に桜が当たり前ってほどに暖冬だったのか?しかも、現代日本の開花宣言はソメイヨシノ、江戸時代の花。西行のころの桜は山桜。山桜は暖冬でも3月にはほとんど咲きません。咲くとしたら、河津桜くらいです。平安時代の桜は、河津桜系だったのでしょうか?
西行法師は、願いとおり、如月の望月のころに亡くなったそうですが、その日桜は咲いたのか?とても気になるのです。彼の願いは、花咲く木の下で死ぬこと。その花が梅ならば、西行の願いは叶い、満開の花の下、梅の香りに抱かれ、かすかな笑みを浮かべて永遠の旅路に旅立った。その上に、花びらがひらりひらりと舞い落ちる。でも、もし、桜ならば、葉一枚花ひとつない寒々とした冬木立の下にひっそりと横たわり、その上を肌寒い風が吹き抜ける。ひゅ~るるるう~~そう思うと、西行が可哀想で涙が出そうになります。だから、ぜひとも、花は梅であって欲しいのです。どうして桜が定説になったのか知りませんが、「花は桜木、男は武士よ」とか「朝日に匂うやまさくら花」とかの江戸時代の「花=桜=潔い男」のイメージに結び付けられてできた定説ではないかと、邪推してしまいます。