10,子曰く、勇を好みて貧を疾(にく)むときは乱す、人にして不仁なる、これを疾むこと甚だしければ乱せん。
先生が言われた。「腕に自信のある人が、貧乏な生活に甘んじられないと、きっと反乱を起こす。しかし、人道に背いた人もあまり正面から憎悪すると反乱を起こすに違いない」。
※浩→上の解釈は貝塚茂樹先生によるものです。吉川幸次郎先生も同じような解釈です。
孔子は、過度で矯激な心理または行動が、無秩序を生むことを戒めた。勇敢な行為を好むこと自体は必ずしも悪いことではないですが、そういう性格の者が、自分の貧乏な境涯に不平を持つ場合は、必ず無秩序状態を引き起こす。また、不道徳な人間がいれば、それは排除されなければならないけれど、あまりにも過度に憎悪するときは、やはり無秩序な状態を引き起こす。
吉川先生はさらに、少し立ち入った解釈として、次のように述べられます。
自己の貧乏な境遇に憎悪を抱き、勇気に任せてそれを打破しようとするのは、革命家の性質で、そうした革命家的性質を、孔子はおそらく乱(=無秩序)として嫌い、不仁の1つと考えたのでしょう。しかし、そうした態度にまったく理解を持たず、ただむやみにそれを憎悪するばかりでは、無秩序はいっそう甚だしくなる。
孔子は「徳治主義」ですから、「罪を憎んで人を憎まず」だったのでしょう。「徳治主義」をまとめると、「格物致知~正心~誠意~修身~斉家~治国~平天下」です。現実には、「道徳」という強制力をともなわない規範で人民を治めることは不可能です。世の中に悪い人はいますから。個々人の権利が衝突して必ずトラブルが発生します。それを治めるには、強制力を持つ規範が必要になってきます。ヨーロッパでは、ホッブズが「人間は人間に対して狼」で、「万人の万人に対する戦い」の状態を納めるのに「絶対君主に」に自然権を委譲すると説きました。「社会契約思想」となります。
儒家で孔子、孟子は性善説ですが、性悪説を唱える人もいました。荀子です。彼は人間の性を「悪」すなわち利己的存在と認め、君子は本性を「偽」すなわち後天的努力(すなわち学問を修めること)によって修正して善へと向かい、統治者となるべきことを勧めました。荀子は「礼治主義」ということでしょう。さらにもっと法令で厳しく律することを主張したのは儒家ではなくて、「法家」という別の一派です。法家思想については、ネットから拝借してまとめました。
法家とは儒家の述べる徳治主義の統治ではなく、厳格な法という定まった基準によって国家を治めるべしという立場である。秦の孝公に仕えた商鞅や韓の王族の韓非が有名です。商鞅は戦国七雄に数えられた秦に仕え、郡県制に見られるような法家思想に立脚した中央集権的な統治体制を整え、秦の大国化に貢献しました。韓非は性悪説に基いた信賞必罰の徹底と法と術(いわば臣下のコントロール術)と用いた国家運営(法術思想)を説きました。初めて中国統一を果たした始皇帝も、宰相として李斯を登用して法家思想による統治を実施しました。
諸国を遊説した思想家で、孔子の儒家が諸侯に用いられることはなくて、中国最初の統一国家の秦が法治主義を採用したことも、納得できます。プラトンの哲人政治も、孔子の徳治主義も、理想として美しいですが、現実の政治では「法による秩序の維持」が不可欠になります。しかしながら、罪を犯した人をあまりにも憎悪しすぎて厳罰を与えると、反省どころか、かえって反乱を起こすことも十分考えられます。日本では「憲法」で、「残虐刑が禁止」されています。第三十六条に、「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」とあります。で「死刑」は残虐ではないか。これには判例があります。1948年(昭和23年)の最高裁判所の「死刑制度合憲判決事件」の判決では、「絞首刑は残虐刑に該当しない」と判断しています。「死刑といえども他の刑罰の場合におけるのと同様に、その執行の方法などがその時代と環境とにおいて、人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、もちろん残虐な刑罰といわねばならぬから、将来、もし死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの如き残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそまさに日本国憲法第36条に違反するものというべきである」(最高裁大法廷判決昭和23年3月12日)。
荀子の、「人間の性を「悪」すなわち利己的存在と認め、君子は本性を「偽」すなわち後天的努力(すなわち学問を修めること)によって修正して善へと向かい」というくだりに関連して、アドラー心理学では、人間を本来は利己的存在であると認めたうえで、共同体感覚という生き方を提案しています。共同体に対して貢献的な生き方を、仮に「善」であるとしていますが、安易に、自分は共同体感覚を実践しているから善人だなとと考えるのは大きな間違いです。野田先生の説によると、その共同体感覚を実践するほうが、実は効果的に自己保存が実現するのだそうです。このことを忘れると偽善者になってしまいます。
野田先生はこう語られます。
「人間はエゴイストだということ」と「共同体感覚」の関係です。目標追及しているというときのその目標は、つまるところ私利私欲です。「共同体のために役に立とう」というような目標追及は存在しません。「人から好かれよう」とか「ボスになろう」とか「誰よりも賢くなろう」とか、要するに superiority striving つまり「人よりも優越していたい」というのが目標です。ところが、まずいことに、周囲の人を助けないと、自分の私利私欲が満たせないのです。そこで、気が進まないけれど、イヤイヤ共同体の役に立つことにするのですから、その目的は私利私欲を満たすことです。これが共同体感覚の第1の見方。
もう1つは、「人生は無意味だということ」と「共同体感覚の関係」です。ニーチェが言ったように、神さまは死んでしまって、価値判断には一切の根拠がなくなってしまいました。善も悪も、真も偽も、何もないんです。一切は空(くう)なんですね。アドラー心理学ではこれを『価値相対論』と言います。でも、それじゃ生きていけないでしょう。そこで、仮想的に価値判断の基準を作ります。それは、どんな基準でもいいんです。けれど、「共同体のために役に立つことが善」っていう基準は、先に述べたような理由で、自分にとってきわめて都合がいいので、これを選択することにします。共同体感覚って、嘘なんです。それは、究極的には善ではないんです。悪でもないんですが。ただの取り決め、思い込み、妄想なんです。共同体感覚を持っている人は、持っていない人より、もっとエゴイストです。共同体感覚をたくさん持っているなんて、きわめて恥ずべきことです。とても人に言えることではありません。
うーん、「価値の相対化」ということでしょうが、少し頭の中がウニになりそうです。