5,原思(げんし)、これが宰(さい)と為(な)る。これに粟(ぞく)九百を与う、辞す。子曰く、毋(な)かれ、以て爾(なんじ)の隣里(りんり)郷党に与えんか。
(孔子の弟子である)原思が、領地の地頭となった。孔子はこの原思に、粟九百を給与として与えた。原思は、(この厚遇を)辞退した。しかし、先生がおっしゃった。「辞退することは許さない。どうしても自分が受け取りたくないのであれば、隣近所の人々に分け与えてあげればよい」。
※浩→孔子は、貧乏だった弟子の原憲(あざなは原思)を、自分の管轄区域の地頭(というか奉行)に任命して、破格の高給を与えようとしました。清廉実直で金銭欲のなかった原思は、「私にはそんな多くの給与は必要ございません」と辞退しようとしますが、孔子は辞退することを許さず「自分が欲しくない(あるいは「余る」)のであれば、それを必要とする周囲の人々に分け与えてあればよいではないか」と君子の道を説きます。つまり、権力と財力を得ることそのものを否定するのが君子の道なのではなくて、自分が獲得した権力や富裕を、人民の幸福や安心のために惜しげもなく使えるのが君子の道なのです。自分がまったく無力で極端に貧乏なら、貧苦や絶望に苦しんでいる民衆を救うことなどはとてもできません。君子というのは「自分の得た政治的・経済的な実力」を人民のために物惜しみせずに使える人物のことであるということです。昔の為政者はこうだったのに、今の為政者は私利私欲で動く人が多いようです。
経済生活も、人間の生活の重要な部分である以上、そこにも人間の善意は過不足なく表現されなければならない、というのが孔子の考えである、と吉川幸次郎先生は解説されます。他のエピソードとして、原思がどれくらい清廉であったかを物語るものがあります。孔子没後のお話ですが、衛の国の宰相となった子貢が、華々しくお供を連れて、露地の奥に原思をたずねたところ、原思はボロボロの着物を纏って出てきました。「君は病気なのか?」と子貢がたずねると、「何を言うか。病気というのは道を学びながら実行しないこと言う」と原思が答えると、子貢は恥じ入ったそうです。
『猛虎行』に、「渇しても盗泉の水を飲まず」というフレーズがあります。どんなに苦しい境遇にあった場合でも、決して悪事には手を出さないということという意味です。
孔子が山東省を旅行しているときに、泗水にある盗泉という名の泉のそばを通りかかった。孔子はカラカラに喉が渇いていたが、「盗泉」という泉の名を嫌い、「名前だけでも身が汚れる」と言ってその水を飲まなかったと言われています。
この故事を晋の陸機が詩に詠みました。
「渇しても盗泉の水を飲まず、熱しても悪木の陰に息(いこ)わず(喉が渇いても、盗泉という名のついた泉の水は飲まず、熱くても、悪木と呼ばれる木の陰では休まない)」
私がこのフレーズで思い出すのは、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の六段目です。
お殿様が殿中で刃傷に及んだ大事のときに、恋人の腰元・お軽とデートしていた勘平は、お軽の実家へ身を寄せて、仇討ちの仲間に加えてもらえる日を待ちわびつつ猟師をする毎日です。ある日、猟に出た勘平は山賊・斧定九郎を猪と間違えて鉄砲で撃ちます。猪でなくて人だと気づいて、薬でもないかと懐中を探ると金包みがあります。この金は少し前、お軽の父・与市兵衛が勘平のために娘を祇園町に売った金の半金です。それを持って祇園町から帰る途中で定九郎に刀で突き殺されて奪われたものです。悪いこととは知りながら天の助けとばかりに、早速、浪士の仲間に届けます。一方、お軽の家では、与市兵衛は前日から出かけていて、それがもう戻ってもよい時分なのにまだ帰らないので、母と娘が案じているところへ祇園町から女郎屋一文字屋の主人・お才と番頭がお軽の身柄を引き取りにたずねてきます。だがその与市兵衛はまだ戻らないので、母と娘は困惑する。そこへ鉄砲を担いだ勘平が帰ってきます。勘平はこの場の仔細を母から聞きます。お軽の母は、かねてから勘平には金が要ることがあると娘から聞いていたので、それを工面するために娘を売って金を作ろうと、昨日祇園町の一文字屋に行き、前金の五十両を受け取ったはずだがまだ戻らないと。勘平は与市兵衛夫婦の心遣いに感謝しますが、与市兵衛がまだ戻らぬうちは女房は渡せないと言います。だが、一文字屋の話を聞いて勘平は愕然とします。与市兵衛は五十両の金を持っていくとき、手ぬぐいを金にぐるぐる巻いて懐に入れた。それでは危ないと一文字屋は与市兵衛に財布を貸した。与市兵衛はその財布に五十両を入れて持って帰った。その財布とは今自分(お才)が着ているものと同じ縞模様の布地だという。まさか…と勘平は昨夜の死体(定九郎)から自分が奪った財布をこっそり見ると、お才が着ているものと全く同じ色と模様。なんということだ、昨夜自分が鉄砲で撃ち殺し、その懐から金を奪ったのは他ならぬ舅どの…!お軽がこのまま行ってよいものかどうかたずねると、勘平は、「実は与市兵衛には今帰った道の途中で出会ったから、安心するように」と嘘を言う。お軽はその言葉で納得し、夫や親との別れを惜しみながらも、一文字屋の用意した駕籠に乗って京の祇園町へとは向かうのでした。
お軽を見送った母親は、勘平に与市兵衛のことをたずねます。「先ほど途中で会ったとゆうたがどこで会ったのか?」。勘平はまともに答えられるわけがない。そこへ、村の猟師たちが与市兵衛の死骸を戸板に乗せてやってきた。夜の猟を終えて帰る途中、与市兵衛が死んでいるのを見かけたのだと言う。母は夫与市兵衛の死骸を見て驚き、泣くより他のことはなかった。猟師たちもこの場の様子を不憫に思いつつ立ち去る。
2人きりになった勘平と母。母は涙ながら勘平に問う。「いかに以前武士だったとはいえ、舅が死んだと聞いては驚くはずじゃ。道の途中で会ったとき、お前は金を受け取らなかったか。親父殿は何と言っていた。返事ができないか。できないだろう、できない証拠はこれここに」と、勘平に取り付いてその懐から財布を引き出しました。
さっき勘平がこの財布を出していたのを、母はちらりと見ていたのです。財布には血も付いている。一文字屋が言っていた財布に間違いない。「コレ血の付いてあるからは、こなたが親父を殺したの」「イヤそれは」「それはとは。エエわごりょはのう…親父殿を殺して取った、その金誰にやる金じゃ…今といふ今とても、律儀な人じゃと思うて、騙されたが腹が立つわいやい。…コリャここな鬼よ蛇よ、父様を返せ、親父殿を生けて戻せやい」と母は勘平の髻を掴んで引寄せ、散々に殴り、たとえずたずたに切りさいなんだとて何で腹が癒えよう」と、最後は泣き伏すのだった。勘平もこれは天罰と、畳に食いつかんばかりに打ち伏している。そんなところに、深編笠をかぶった2人の侍が訪れた。
訪れたのは千崎弥五郎と原郷右衛門である。勘平は2人を出迎え、中に通した。勘平は2人の前に両手をつき、亡君の大事に居合わせなかった自分の罪が許され、その御年忌に家臣として参加できるよう執り成しを頼む。すなわち亡君の仇討ちに自分も加わりたいという願いである。だが郷右衛門の言葉は勘平の期待を裏切る。勘平は実は、ここに帰る途中で大星由良助に弥五郎を通じて例の五十両の金を届けていた。しかし由良助は、殿に対し不忠不義を犯した駆け落ち者からの金は受け取れないとして、金を返しに郷右衛門たちを遣わしたのである。郷右衛門は勘平の前に五十両を置く。
そんな様子を聞いていた母は、「こりゃここな悪人づら、今といふ今親の罰思ひ知ったか。皆様も聞いてくだされ」と、勘平が与市兵衛を手にかけたといういきさつを話し、「お前方の手にかけてなぶり殺しにしてくだされ」と、再び泣き伏す。郷右衛門と弥五郎はびっくりし、刀を取って勘平の左右に立ち身構えた。
「ご両所ご両所、しばらくしばらく、亡君の恥辱とあれば、一通り申し開かん…」勘平が舅を殺して金を奪ったと聞いた弥五郎たちは立ち去ろうとするが、勘平は2人の刀のこじりを捉え、必死になって引き留めようとする。弥五郎は声を荒らげ「ヤイ勘平、非義非道の金取って、身の咎の詫びせよとはいはぬぞよ。わがような人非人武士の道は耳には入るまい」と睨み付け、郷右衛門も「喝しても盗泉の水を飲まずとは義者のいましめ。舅を殺し取ったる金、亡君の御用金になるべきか。生得汝が不忠不義の根性にて、調へたる金と推察あって、突き戻されたる由良助の眼力あっぱれ…汝ばかりが恥ならず、亡君の御恥辱と知らざるかうつけ者。…いかなる天魔が見入れし」と、やはり勘平を睨みつけながらも、目には涙を浮かべるのであった。堪りかねた勘平は、もろ肌を脱ぎ差していた脇差を抜いて腹に突っ込んだ。
「亡君の御恥辱とあれば一通り申し開かん」と、勘平はこれまでのいきさつを2人に話した。昨夜弥五郎殿に会った帰り、猪に出くわし撃ちとめたと思った、だがそれは人だった。とんでもないことをした、薬はないかとその懐中を探ると財布に入れた金、道ならぬこととは思ったがこれぞ天の与えと思い、弥五郎殿のあとを追いかけその金を渡した。だがこの家に帰ってみれば、「打ちとめたるは我が舅、金は女房を売った金。かほどまでする事なす事、いすかの嘴(はし)ほど違ふといふも、武運に尽きたる勘平が、身のなりゆき推量あれ」と、無念の涙を流しつつ語るのだった。
話を聞いた弥五郎は、郷右衛門とともに与市兵衛の死体を改めた。見るとその疵口は、鉄砲疵にはあらで刀疵。それを聞いた勘平も母もびっくりする。「そう言えばここへ来る道の途中、鉄砲に当って死んだ旅人の死骸があったが、近づいてよく見ればそれは斧九太夫のせがれ定九郎であった。九太夫にも勘当され山賊に身を落としたと聞いてはいたが、さては与市兵衛を殺したのは定九郎だったのだ」と郷右衛門は語る。勘平の疑いは晴れた。知らぬうちに定九郎を撃って舅の仇討をしたのである。母は誤解だったことがわかり勘平に泣いて詫びる。だが遅すぎた。郷右衛門たちの心遣いで瀕死の勘平の名は討入りの連判状に加えられた。勘平と母親は、財布と五十両の金を出し、せめてこれらを敵討ちの供に連れてゆくよう頼む。郷右衛門はそれを聞き入れ、財布と金を取り収める。やがて勘平は息絶えた。涙に暮れる母の様子を不憫と思いつつも、郷右衛門と弥五郎はこの場を立つのであった。
あーあ、だんだん本気になって「六段目」を全部話しちゃった(笑)。