Q
義父と話しをしていて、民主主義が行き詰まっていることが話題となりました。義父は、「テロがあちこちで起こらないとどうしようもない時代になっているのだ」と言います。そんな怖ろしい状況だと先生も思われますか?
A
思います。民主主義は衆愚主義なんですよ。民主主義というのは、民衆が政府なしでは暮らせないから。民衆が自分たちの知恵で暮らせないから、誰かに暴力を預けるんです。民主主義というのは「暴力装置」なんです。独裁主義も暴力装置なんですけどね。これは日本の民主主義のハシリの福沢諭吉さんがすでに認めているんです。僕、福沢諭吉さんは賢いと思ったんです。結局、江戸幕府というのは暴力装置で裁判権を持っている。悪いことをした人をお奉行様が取り締まって、場合によっては死刑にします。それは民衆どうしが殺し合うから、民衆どうしが殺し合わないために、民衆の殺す権利を奪うんです。全民衆から一律奪い去ったらどうしようもないから、政府だけが殺す権利を持つんです。そこへ全部の殺す権利を集中しておく。で、政府は民衆が殺し合いをしたりしたときに、殺人者を捕まえて死刑にしたりする権利を持っているわけです。そういうやり方だったんだけど、今度は明治政府になって民主化してきたらどうなったかというと、民主的な政府だってその点では一緒なんです。暴力装置なんです。政府というのは基本的に暴力を持っていて、その暴力を乱用する傾向がある、いつも。かつてわれわれの政府は「軍隊」という装置を乱用しました。日本人は懲りて、今度は「憲法9条」という世にもたわけた法律を作って、軍隊が存在しないかのように、実際は存在するのに、存在しないかのように思い込んで暮らすことにしたんです。暴力装置である軍隊を持たないで暮らせれば一番いいです、確かに。ほんとに非武装中立ができればいいけど、非武装中立は不可能だと思う。どうしてもどこの国も暴力装置である軍隊を持つ。それはOKなんです。その暴力装置である軍隊が適正に動きさえすれば。戦前の軍隊みたいに、天皇統帥権なんて変なものを…。知ってますか?こういうのをちゃんと勉強してくださいね、憲法議論するときには。女の人たちは、「戦争はイヤや。うちの子が戦争に引っぱられるのはイヤや」と言うんです。そんな馬鹿な発想するんじゃないですよ。戦争前に何が起こったかをきっちり勉強してから言おうよ。あれは天皇統帥権というのが問題だったんです。明治憲法をよく読むと、僕はよくできた法律だと思う。法律としては今の憲法よりも、全体的な筋が通っていると思う。ただ、筋が通っていない部分がいくつかあって、それは、軍隊を統帥するのは天皇だと書いてあるんです、国会じゃなくて。これは筋が通ってない部分なんです。なんでかというと、明治憲法ができた時点では国会がまだなかったんです。憲法が先にできたんです。だから、国会が軍隊を統帥すると書けない。今度は軍隊がそれを盾にとって、国会は軍隊に介入できないと言う。それで陸軍が勝手に中国と戦争を始めちゃうんです。国会はそこに介入できないと言う。で、ああいう悲劇的な戦争に陥っていってしまったんだけど、あれは軍隊の存在そのものが問題じゃなくて、軍隊の使い方の問題だったと思う。軍隊を支える法律が不備だったと思う。だから、きちっとした法律があって軍隊を持つというのは、必要悪だけどしょうがないと思う。民主主義というものは基本的にそういうものです。民主主義というのは暴力装置なんです。暴力の使い方をある独裁者が一方的に決めるんじゃなくて、民衆の合意にもとづく国会が決めていくのが民主主義ということじゃないですか。警察だって暴力装置なんです。警察も暴走したことがあります。特高警察と言って思想統制して、僕たちが何か言うと後ろに警官が立っていてね、こんな講演会なんか、僕なんか戦前こんな話をしていたら、超過激派ですからすぐ特高警察に引っぱられて5,6発分殴られているところなんです。そうやって国家がわれわれの思想を統制するというのは、暴力装置である国家が自分の権力を乱用しているわけです。その権力乱用を防ぐためには人権思想が必要なんです。「人権」というのも完全に間違って使われている政治用語です。人権というのは、国家権力から国民を守ることです。だから「日照権」というものはないんです。国家が僕らの上に傘をさしたら日照権があります。国家はそんなことしない。隣のおじさんがするのは、あれは人権の問題じゃないんです。ただの法的契約の問題なんです。だいたいこの国の権利意識がおかしくなったのは、日照権問題からです。裁判官が勉強が足りなくて、日照権というものを判例で認めて以来、今度は「嫌煙権」なんていうとんでもないものまで出てきて、嫌煙権というのは政府がタバコの煙を空から播いたら嫌煙権があるんです。国家権力が暴力装置を使って煙を出したら嫌煙権があるけど、隣のおじさんがそこへ座って煙を出しているのを、僕らはなんかの権利を主張できないんです。権利というのはそういう概念じゃないから。権利というのは国家の暴力に対して国民が保護されるのが権利なんです。これが定義なんです。そもそもイギリス民主主義の中での基本的な定義なんですが、みんな麻痺して裁判官さえわからなくなって、それで「権利意識」というわけのわからないものが今突っ走っているんです。これは要するに、人間のわがままの集大成です。本来の民主主義の形態から逸脱しているんです。本来の民主主義だってうまく動いたわけではないんですが、それよりももっと悪いです。暴力装置を国家に預けて、その暴力装置の動きを国民が適正に監視するという形じゃなくなって、そもそも法律を除けば存在もしない「基本的人権」、「生存権」てないんです、人間に。自然は僕らの生存権について何もコメントしない。僕らが山に登って雪崩に遭って死にかけて、「ガー!俺の生存権はどうなってるんだ」と言っても、そんなものはない。全然ない。生存権とか居住権とか集会結社の自由なんて、法的概念です。法律がなかったら権利もないんです。基本的人権という発想を、とぼけたアメリカ人が「天与の人権」だって、「天」つまり神が与えた人権だと言ったから、これもキリスト教的発想で、それで話がおかしくなっているんです。人権というのは法律的概念なんです。法律が先にあるんで、法律がなければ権利はないんです。憲法に基本的人権と書いてあるということは、憲法の存在以前には基本的人権はないわけです。憲法があってはじめて、これは国がそこに介入しませんよ、基本的人権というのは国民を国家は脅かしませんよ、「国家は」と言うんだから他の人は知りませんよ。インフルエンザウイルスはあなたがたの生存を脅かすかもしれませんよ。インフルエンザウイルスは国家ではないから、それは生存権と関わりがありませんと、こう言っているわけ。ここらのことがもうわからなくなっている。学者すらわからなくなっている。特にこの国では左翼系の学者が戦後60年以上にわたって、民主主義思想を混乱させるようなキャンペーンを張り続けました。特に朝日新聞がその上に真っ向から乗っかって、人権思想を今言ったようには絶対説明しないんです。基本的人権というのが憲法の存在以前からある人間の本来の権利みたいに、人間の本来の権利なんて何にもないんですよ。法律があって暴力装置である国家があってはじめて権利という概念が出てきた。歴史的にもそうです。イギリスで「権利の章典」ができるのは、暴力装置の国家があったからこそ「権利の章典」ができるわけだもの。それは左翼系のいわゆる進歩的文化人が国民に対して誤ったキャンペーンを張り続けましたから、僕らは完全にそれに麻痺しちゃって、民主主義という装置を使えなくなっている。それで変なことがいっぱい起こっています。あっちでもこっちでも。じゃあ本当はどうなのかというと、本当は最終的には暴力装置である国家がなくなってもいいように、使わなくてもいいように、国民が賢くなっていくことだと思う。国民が賢くなっていくのはどういうことかというと、まあわれわれの立場としては、アドラー心理学をみんなにしっかり勉強してもらう。国民の必修科目にする。中国人の必修科目にもし、韓国や朝鮮人の必修科目にもし、ロシア人の必修科目にもしよう。それと暮らし方そのものをもっと人間的なものに成長させる。人間的なものというのはどんなものか。
この間、ケーブルテレビを観ていたら、市町村合併のことをやっていました。誰だろう、トラック野郎していた俳優さん、菅原文太さん、あの人このごろそんなことをやってるんです。自然保護だとか。それで全国を回って市町村合併に反対している人たちとか、開発を阻止したのとか集めてドキュメンタリーをやっていたんです。東北地方の山の中の小さな村の村長さんが、市町村合併に反対して村のままでいるんです。その村長さんの言い分は、村長が村人の顔を全部知ってない村なんて意味がないと言うんです。これはすごく正しい人間的発言だと思う。市長が自分の市の住民を知らない市なんていうのは、もう人間の住む場所ではないんです。機械なんですよ。それが結局少年犯罪なんかを激増させている。どこの子かわからない子がいるわけだ。あれは誰なんだとみんなわかっている場所では犯罪は起こらない。この子はどこの子だとちゃんと知っているんだったら、その子に対して悪いことはできないでしょう。だからすごく残酷な犯罪が起こるのは無名の人たち、誰かわからない匿名の人物が歩いている世界です。匿名の人物がいっぱい歩いている世界を見たければ、インターネットで2チャンネルを見てよ。そこは完全に匿名の掲示板ですから、人間が匿名になるとどんだけ極悪になれるかを見られるから。僕たちは自分の出所、どこの息子でどこの孫で誰の婿で誰の嫁でとわかっているときには、自分の居場所がちゃんと定められる。それがわからなくなって匿名の仮名の人物になると、どんなふうにもなれる。それって結局民主主義じゃないの。その匿名性というのも西洋民主主義が作り出してきたことじゃないですか。私は誰の息子でそのおじいさんは誰とわかっている社会のほうが、そうでない社会よりもずっと安全だと思わない?だから違う形の社会を作っていかなきゃいけないと思う。でもそれが何なのか見えないんです。僕たちは400年にわたるデカルトパラダイムの、科学と民主主義の世界の終わりにいて、「ポストモダンだな」と哲学者が1970年ごろに言い出しましたが、哲学者というのはいつも時代よりも50年くらい突っ走って先にいますから、次の時代の展望はまだできていないんです。あと2,30年くらいみんなで格闘して、僕が死んじゃってしばらくしたくらいに、「ああ、こうやって生きるんだな」という最初の設計図が見えてくるんじゃない。それまで人類が保てばね。(回答・野田俊作先生)