Q 行動するときの判断基準は?
 自分が行動するときの判断の基準ですが、今まで持っていた道徳的な善悪だとか、社会通念だとかが最近疑わしいもののように感じてきています。野田先生が行動されるときの基準はどのようなものか教えてください。

A
 これはね、簡単です。アルフレッド・アドラーという人は、正義だとか、正不正だとか、善悪だとかいうのを、間違った考え方だと考えていたんです。
 われわれ人類は、自然死以外に殺されて死ぬ人がたくさんいますが、殺された理由は何が一番多いかというと、正義のために殺された人が多いんです。戦争なんてそうでしょう。両方とも「われわれが正義だ」と言う。それで、大量に殺人をする。強盗で死んだ人よりも戦争で死んだ人のほうが圧倒的に数が多いでしょう。だから、正義なんていう考え方は人殺しに通じるんですよ。善とか悪とかという考え方は、結局は自分の好みなんです。
 では、アドラーはどんなことを考えたかというと、「今これをすることが共同体にとってプラスかマイナスか」ということです。例えば、これをすると家族に貢献になるか迷惑になるか。これをすると地域に貢献になるか迷惑になるか。これをすると日本の国にあるいは人類にプラスになるかマイナスになるか。だから、共同体にとって有益であれば良い行動で、有害であれば悪い行動です。
 それから、どちらでもない行動というのもいっぱいあります。有益でも有害でもないようなもの。判断に困ったら、「それをすると家族にとってどうかな?」と考えてみる。例えば、突拍子もない服装をして、頭をキンキンキンに染めて、それを固めて立てているとしましょう。さあ、これはどうか?こんな格好をしても別に何も破壊しませんね。「見てると腹が立つ」と言う人がいるかもしれないけれど、それはその人の好みの問題ですからね。だから、これはかまわない。あるいは、真っ裸でいること。これはどうでしょう?これも何も破壊しないんですよ。見たくない人は見なければいい。“音”というのは耳をふさいでも聞こえますが、見るほうは目さえそむければ見えないですから。
 学校は、服装違反と言って、やたら威張って取り締まっていますが、あれはおかしいです。生徒がどんな服装をしていようが、学校共同体にとって破壊的ではないはずなんですよ。スカートの丈が長かったら、校舎の壁が崩壊するとか、校長先生が病気にかかるというのだったら大問題です。アドラー心理学の立場から言うと、服装違反なんていうのはありえないんです。これが、たった1つの判断基準です。
 次に、小さい共同体と大きな共同体との間で利害が矛盾することがある。これをやると家族のためにはいいけれど、隣近所の迷惑になるといったことがあるでしょう。家族みんなでダンスパーティーをやったとして、ものすごく大きな音でロックミュージックをガンガンにかけて踊った。家族みんなはとても楽しくてよかったけれど、隣近所にとっては騒音公害ですね。こういう場合にどっち側を取るかというと、より大きな共同体ほうを取る。究極的には、「全人類にとってどうかな?」と考える。もっと究極的には、「この宇宙全体にとってどうかな?」と考える。だって、人間の利益だけ考えて行動したら、カワウソさんがかわいそうでしょう。「人間に良ければ動物はどうなってもいい」なんて、人間の権利ばかり主張していたら、共同体の中で、かえって結局われわれの首を絞めることになります。僕たちはそれを今までやってきたんです。
 だから、できるだけ大きい共同体の利益を考えて、その中で行動するということ、そんなふうにアドラーは言いました。(回答・野田俊作先生)