Q 子どもの権利の一部を学校が預かるのは?
子どもの権利の一部を学校が預かって、子どもの健全な成長のため強い管理をするという実態についてどう思われますか?
A
子どもの権利の一部を学校が預かることは賛成なんです。ただし、子どもが承認すればね。つまり民主的な組織というものは、そこを構成している人たちの権利の一部を、国家なり組織なりが預かるということで初めて成り立つんです。
ややこしい言い方ですから、もっとわかりやすく言うと、例えば僕らは人を殺す権利はないです。でも、たぶん本当はあるんですよ。本当は生まれながらにして他人を殺す権利はあるんだけれど、それを認めちゃうと具合が悪いでしょう。私があなたを殺す権利を認めると、あなたが私を殺す権利を認めなくてはいけないから、私はいつ殺されるかわからない。そんなのイヤですね。だから、私は自分の、人を殺す権利を放棄するんです。そのみんなが放棄した権利を国が集めます。だから、国は人を殺す権利を持っているんです。死刑をするし、戦争もしますからね。あれは僕らから集めた権利を使っているんです。日本ではまだ死刑廃止論が優勢でなくて、国家はわれわれから集めた殺人の権利を行使したがっているようですね。でもそれは、われわれが合意しているからそうなるんです。僕らが選挙によって、今の法律を支持するような政府を作っているからね。どの政党も、個人に殺人の権利を認めようなんて言う政党はないですし、あっても誰も相手にしないでしょうしね。
学校の規則の場合に、服装の自由なんていうのは、国民の基本的人権だろうと思うんだけど、それを子どもたちが学校に対して放棄するという契約をしているかどうか、そこが問題なんです。また放棄するという契約を、ある年度の子どもたちがしても、次の年度の子どもたちがしているかどうか。
「遅刻したら、ブン殴ってください」という契約になっていれば、ブン殴ってもいいですわ。契約でそうあるから。これはアドラー心理学の面白いところで、アドラーという人はユダヤ人なんですが、やっぱりユダヤ人だなぁって思うのはこのあたりです。ユダヤの世界には「正義」というものはないんです。あるのは「契約」だけ。神様とわれわれの契約が宗教で、民衆同士の契約が法律ですね。この考え方はとても民主的です。
学校の規則だとか、あるいは国家の法律だとかいうのも契約なんです。その契約が正当な契約かどうかは、契約の両当事者がそれに合意しているかどうかです。一方だけが合意しているのは不当な契約です。学校の規則は、したがって不当な契約です。だから駄目なんです。生徒たちに、「これでいい?」と聞いてみて、「それでいい」と言えば、私はどんなふうに契約されていても、それでいいと思う。
ただ、それでもまったく異存がないわけではないですがね。今の子どもたちは、かわいそうに小さいときからさかんに奴隷根性を躾けられていますからね。例えば、“人と同じでなければいけない”とか、“年上の人に逆らってはいけない”などと躾けられているから、個性とか、自分で考える力とかを徹底的に抜き取られていますから、必ずしも賛成しませんが、原則的には今言ったようなことだと思うんです。(回答・野田俊作先生)