Q
 学校でイジメについて対処療法として対策を重視しているが、イジメ防止の取り組みが大切だと考えています。そのために学校、クラスとして何ができるか?子ども同士の人間関係の構築は?

A
 「常識」の構築だと思う。人はいかにして生きるべきか?3つあります。人は現にどう生きているかという、人の「ありのままの姿」と、人はできたらこう生きていきたいよねという「欲」「欲望」と、それから、人はやりたくないけどでも「こうやって生きるべきだよね」という「道徳」です。西洋の言葉では非常にはっきりと区別できている。昔のドイツ語では、「ありのままの姿」はザイン。「欲望」はヴンシュ?。「道徳」はゾルレン。「こうあるべき」というのを人間はなかなかできないけれど、「こう生きるべきだ」というのをはっきり打ち出して教育しないといけないと思う。これが今の教育の大きな弱点です。人のあるべき生き方について子どもたちに説くことを、文部科学省も抵抗を持っているし、日教組はもちろん抵抗を持っているし、教育界全体が「人はこう生きるべきだ」とはっきり言えないところがある。人は「こういうことをしてはならない」「こう生きなければならない」と言えないところに、大きな問題がある。でもまあ制度を嘆いていてもしょうがないから、先生方1人1人が「人のあるべき姿」、「ありたい姿」は誰でも言うんですが、「あるべき姿」はあまり「ありたくない姿」なんです。極端な話をすると、昔の兵隊さんが玉砕した話があります。大阪の郷土部隊が昔のモンゴル(今は中国)のショウカコウというところにいて、戦争が終わったときにソ連軍が攻めてきていて、在留邦人を守るために武装解除をするように天皇陛下から命令が出ていたけれど、将軍が民間人を無事に安全なところへ送り届けるために武装解除しないと言って、徹底的に抵抗した。国は「戦争をやめな」と言っている。戦争やめて武装解除したら、自分たちは死ぬ心配はない。でも将軍が「そうはいかん」と、武装解除しないで「われわれ全員死んでもいいから民間人を死なしてはいかんから兵隊は死ね」と兵隊に「行け」と言った。結局は死ななかったけど。「こうでありたいこと」と「こうであるべきこと」は違う。「こうであるべきよね」に向かって生きようというのが道徳だと思う。自分の欲とか願いとかじゃないけれども、世のため人のためにはこうやらざるをえないよねっていうことを、学校が教えなきゃいけない。今の学校はそうしてない。自分の願いに反した、世のため人のためになることをしないといけない、「これが人のためなんですよ」ってはっきり言える先生が少ない。で、「勉強するのは何のため?」「それはあんたが幸せになるためよ」って言うんです。「なんでそんなことしてはいけないの?」には、せいぜい「人の迷惑になるから」くらいしか言わない。で、人の迷惑にならなければ何したっていんだという子どもが育つ。迷惑にならなければ何したったいいわけじゃないです。人の役に立つために自分のしたくないこともしなければならないというのが道徳です。それが教えられていれば問題解決する。先生にそれを教えるだけの気迫があるかどうかです。道徳というものをもう一回自分に問い直してみる力があるかどうかです。(回答・野田俊作先生)