16,子曰く、古者(いにしえ)は民に三疾(さんしつ)あり。今や或(ある)いはこれすら亡きなり。古の狂や肆(し)、今の狂や蕩(とう)。古の矜(きょう)や廉(れん)、今の矜や忿戻(ふんれい)。古の愚や直、今の愚や詐(さ)のみ。
先生が言われた。「昔の人民には三つの悪癖(欠点)があった。今ではそれさえもないかもしれない。昔の狂信者(無法者)は言いたい放題にものを言った(自由奔放だった)が、今の狂信者は自信がない(ただ出鱈目)。昔の傲慢な者(侠客・顔役)は礼儀(折り目)正しかったが、今の顔役はすぐに腹を立ていきり立つだけだ。昔の愚者は正直であったが、今の愚者は卑屈に人を騙す(見え透いたペテンをやる)だけである」。
※浩→昔の人民にも今の人民にも多くの欠点や悪徳があるが、復古主義的な思想を持つ孔子は、昔の人民のほうが今の人民よりもまだ多くの美質や長所を持っていたと考えていたのです。日本では、明治と現代、いや、昭和&平成と現代との対照にそのまま当てはまりそうです。「狂信・傲慢・愚直」という悪徳であっても、昔はそれなりの良さを持っていたが、現代はそれさえも失われたということです。しみじみと実感します。
孔子は復古主義と言われますが、それは主に「周公・旦」の礼治主義をモデルにしていて、老子が言うような「(文明を拒否する)原始への復帰」ではなかったようです。旦は、礼学の基礎を形作った人物とされ、周代の儀式・儀礼について書かれた『周礼(しゅらい)』、『儀礼(ぎらい)』を著したとされます。旦の時代から遅れること約500年の春秋時代に儒学を開いた孔子は魯の出身で、文武両道の旦を理想の聖人と崇めて、常に旦のことを夢に見続けるほどに敬慕していました。あるとき、旦の夢を見なかった(吾不復夢見周公)ので「歳を取った」と嘆いたと言われます。私の場合は、野田俊作先生の夢を見なくなったら歳を取ったと嘆くことになるのでしょう。今は、夢でなくて昼間でも常に先生が身近にいらっしゃるように感じます。あのやさしいお声が耳の奥でいつも聞こえています。
犯罪が多発して嘆かわしい今日ですが、捉えられた犯人の弁明にも新旧の差があります。横溝正史の作品に見られる犯人には、やむにやまれぬ、つい共感してしまうような歴史がありました。今の犯人の犯罪の動機はまことに自己中心で、ただ「ムカムカして誰でもよいから殺したかった」だって。ふざけるな!おまけに「大勢殺して死刑になりたかった」だと?てめえだけ勝手に死ねーーーー!縁もゆかりもない人を巻き込むな!こんなに「狂気の社会」に成り下がってしまったのは、なぜかというと、アドラー心理学が広まらないからです。