37,子曰く、君子は貞(てい)にして諒(りょう)ならず。
先生が言われた。「君子は恒常的な正しさ(大きな信義)を守るが、(重箱の隅のような)細かい正しさ(小さな信義)にこだわらない」。
※浩→「貞」は永久に続くような正しさ(大義)、「諒」は短期的なその場限りの正しさ、細かいところにこだわるバカ正直さを意味する。君子には「大義を取って、小義を捨てる」ような決断が求められることが少なくないのでしょう。「諒」を「諒解(了解)」と訳す説もあります。荻生徂徠は、「君子は貞正な不変な徳を内に保持し、人々の諒解を希求しない」と訳していますが、吉川先生は「通説」のほうが最良だと解説されています。「大義を取って小義を捨てる」、ここから、「一殺多生」という考えが出たのでしょうか?「一殺多生」とは、1人を殺すことで多く生かすとする真宗大谷派の仏教用語だそうです。元は大乗仏教経典の1つ『瑜伽師地論』の漢訳文に記された四字熟語です。日本では右翼の政治思想の1つとして使われ、戦前の右翼団体「血盟団」の指導者である井上日召が唱えた理念だそうです。昭和維新を呼号した井上は、血盟団の団員に「一人一殺」を説き、政財界の要人の暗殺を教唆しました。「一人一殺」とは、各々の血盟団員が標的を定め、一人ずつ暗殺していくというものです。標的のみを殺し、それ以外の人的被害を防ぐため、その手段は専ら接近してのピストルによる射殺でした(アルカイダによる自爆テロは、無関係の大衆を巻き込みますが、それとは違うようです)。井上は「これ(標的)に天誅を加えることは、一切を救わんとする一殺多生の大慈大慈の心に通ずるもの」と主張しました。要人一人を殺すことで、その他の大勢の一般国民が救われる」と、血盟団のテロ活動を正当化しました。戦後の右翼活動家も、連続企業爆破事件など一般人を巻き添えにする左翼のテロとは違って、自分たちのテロは標的のみに狙いを定め、他者を救済する「慈悲ある」テロと自負し、この理念を正当化している者が少なくないと聞きます(ここまで主にネットから引用)。そういえば、テレビの人気ドラマ『相棒』でも、このテーマが扱われていました。主人公は、特高警察?の極限訓練で、突然発狂してあたり構わず発砲する同志を射殺してしまいます。そのときの彼の支えとなったのが、「一殺多生」の理念でした。おかげで確かに多数の同志の命が救われました。その後、彼は自主退職して、ある要人の用心棒になります。その要人の勧めでか、自分の意志でか、フランスの小説家アンドレ・ジッドの『一粒の麦もし死なずば』を愛読していました。この標題は『新約聖書・ヨハネ伝』第12章24節の、キリストの言葉、「一粒の麦地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、もし死なば多くの実を結ぶべし」に由来します。約2000年前、キリストは、自分を一粒の麦にたとえ、そのいのちを十字架上で犠牲にすることで、すべての人の罪を自らが担い、イエスを信じた人に永遠のいのちを与えるという神の計画を実行しました。日常生活においてでも、ある人がイヤな役を買って出てくれることで、その周辺の人が助かることもあります。「あの人のために」という貢献のこころざしにもとづいて行動することは、豊かな実を結ぶのではないか、と、素朴に人生の指針としている人も多いでしょうが、「一殺多生」となると、これは物騒です。『相棒』の主人公は、要人の命ずるがままに、次々とターゲットを殺害します。大詰めでは、例によって、杉下右京が、たとえ一人の命であっても、それを殺す権利は誰にもない!と強くたしなめます。一般人として、ドラマを見ていると、ついついテロリストの論理に同調しそうになって、杉下右京の「喝!」で目を覚まされました。そしていつでも、「他に方法はなかったのかい?」と同じドラマの登場人物・瀬戸内米造議員(故・津川雅彦さん演ずる)の飄々とした言い回しを思い出します。アドラー心理学で言う「代替案」でしょうか。「他に方法はなかったのかい?」