Q
中1の息子はネットゲームに夢中です。彼はお金を使ってゲームに参戦しているときもあります。お金を使ってまでゲームをすることに一度強く叱りました。
A:おー、なんて親だろう。話し合うのはいいけど、叱る必要はこの年齢になるとないと思う。
Q:高校生になった今は、お小遣いの中でやっていくことには何も言っていません。ただ、ゲーム中に「こいつムカつく。死ね死ね。もうイライラする」と言いながら、机を叩いたりします。部活もしなくて帰宅したらすぐパソコンの前に座る彼。時間は1時間と約束しているのは守っているようですが、彼の「死ね、死ね」という言葉が凄く気になります。まさしくハートが育っていないと思います。私は黙って見ていたらいいのでしょうか?
A
「死ね、死ね」もいいんじゃない?沖縄のチームが甲子園に来るじゃないですか。沖縄から熱狂的な応援団が来るじゃないですか。だいたい本土の応援団は「頑張れー!」と言うんですが、沖縄の応援団は「クルセー!」と言うんですよ。「殺せ」という意味なんだけど、なまってるからみんなわかんないだけです(爆笑)。こわいね、みんなで「クルセー!クルセー!」。おーやってるって。いいじゃない?「かけことば」だから、かけ声だから、元気になるし。それはそれでしょうがない。これも反戦平和、絶対平和主義で、人を殺すとか、戦争するとかいうのを、極端にアレルギー的にイヤがるんですよ。でもね、国家って何かというと、こういう考え方を僕はしているんですけど、全員が武装し暴力を持つのは具合が悪いと思うの。こういうのを「ガン・デモクラシー」と言うんですけど、アメリカの「合衆国憲法」はガン・デモクラシーで、全員が武装する権利を認めているんです。機関銃はダメなんですけど、ピストルは持っていいんですよ。ピストルもね、かなり凄いのが持てるんですよ、実は。普通はそんなん持ってないんですけど、うちテレビが有線・ケーブルテレビなんですけど、それに「ミス・バスターズ」という僕の愛し番組があるんですが、「怪しい伝説」って言うんですが、アメリカのおじいちゃんとおばあちゃんが出てきて、怪しそうな都市伝説かなんか出てきて、片っ端からほんとかどうか実験するんですが、例えば、“007”なんかで水の中を泳いでいて上から鉄砲をパンパンと撃つんですが、水の中を泳いでいるから球が当たらなくて死なないというのがあるじゃないですか。あれ、ほんとかどうか実験してみようというので、プールへ人形を入れて上からパンパンと弾を撃つんです。それをやるときに、ありとあらゆる方法で合法化されている鉄砲を持ってくるんですが、なかなか凄いのがあって、こんなものを普通の市民が持っていいのかと思うような、野戦用のもの凄いヤツがあるんですけど、そんなん持っていいんです。僕はあのやり方は多分まずいと思うの。暴力を市民が私有しているというのは、銃砲刀剣、日本では美術品として日本刀を持つことはできますが、武器として持つことはできないんです。日本刀を所持しているのはいいんですけど、使用すると当然罪になるんです。正当防衛であってもね。うちへ強盗さんが入ってきて、強盗さんがなんや言うから、家伝の日本刀をギラリと引き抜いてスバッと袈裟懸けにその強盗を殺したら、過剰防衛で完全に殺人になります。死ぬと知っていてやっているから。この国はそういうのを正当防衛による武力行使も認めていない。これ賛成なんです、僕は。ガン・デモクラシーはイヤなんです。でもまったく武装なしというのもナンセンスだと思わない?誰も、警官も武器を持っていない、自衛隊も武器を持っていないのもナンセンスじゃないですか。だから僕たちが本来持っている武器を、警察とか自衛隊とか限定された人たちだけ使っていいようにするんです。その限定された人たちは一定のルールのもとで、それを使用していいことにするんです。ルール外れて使用してもらうと困るけど、あるルールの範囲内で使用することが、国民の自由を最大限に保障することになるじゃないですか。もしもみんなが武器を持っていると不自由だし、誰も武器を持たないと不自由なんですよ。どこかに武器を預けておいてその人たちに使ってもらうと、みんなの自由が一番大きくなるじゃないですか。ということは、殺人者集団がいるわけ。国家には警察とか軍隊とかいう形の殺人者集団があって、それではじめて僕らの自由が保障されるんです。この理屈、納得する?そうすると、ある人たちは人を殺すということについて訓練を受けて、最も効率的に人を殺せるエキスパートになってほしいんですよ。それはわたくしがエキスパートの心理療法家であるように、自衛隊員がエキスパートの殺人者であってほしいんですよ。彼らの武器は完全に制御されているから、その鉄砲が私を向くことはないんです。その鉄砲は敵を向くんですよ。誰が敵か知らんけど。この間、ある所でもと自衛官の、もと陸上自衛官のOBの話を聞いてたんですが、彼は陸上自衛官を一応退官をして、某国の、どっか言わないんですが、某外国の機関の教官をやっているんです。それで、セルフ・デフェンス=自分を守るノウハウを教えてくれてたんですけど、面白い人がいるでしょう。鉄砲を構えて、連発、10発だったら10発撃つんです。だんだん敵へ近づきながらね、ガガガガと走りながら撃って、最後上へ馬乗りになってガーンととどめの一発をとかやっているんですけど、なんて迫力!敵へ近づきますけど、絶対向こうは目を背けますから、とか言うんですよ。それから暴漢がいたでしょう、東京のほうで、片っ端から刀で斬ったやつ。僕がもしあそこにいたら、一人目斬られたら二人目に立つんです。一人目だと判断できないけど二人目だと判断できますから、刀は1本、刃物は1つですから、最悪の場合私の胸にそれを受ければいいんだ。そうすると私は8秒間生きていますから、その8秒の間に十分相手の頸動脈をかき切れますから、と恐ろしいことを言うんです。凄いな、こいつって。こんなとき第一の使命は他人を傷つけないことで、第二の使命は自分を傷つけないことで、第三の使命は相手を傷つけないことです。自分の体の中に刀を受けちゃえば、もうその刀=武器はないわけでしょう。なんちゅう発想!と思うけど、それがプロなんやね。そういうプロが存在することが、僕たちの自由を保障しているんです。私は軍隊を持たなきゃならない社会というのは、凄く悲しい。アドラー派ですから、暴力で問題を解決する世界が来ないことを凄い願っています。でもね、家であなた方が子どもの頭をしばいている間はダメなんですよ。その間は絶対ダメです。国際紛争もやっぱり暴力で解決するんですよ。だから人間がデベロップしないと。ハートが育たないとその日は来ません。それまでの過渡的な手段として暴力集団が要るんです。暴力をなくすというのは、僕は間違った発想だと思う。暴力を制御することが正しいと思う。日本人という種族は、おとなしいということで世界的に有名です。日本人はいつも礼儀正しく控えめでおとなしいって、今でもそうだと思う。西洋世界へ行ったらそうだと思う。中国へ行ってもそうだと思う。なんで日本人は控えめでおとなしいかというと、それは武道をやったからだと、僕は思うんです。武道の伝統があるから。僕も武道をやりました。武道って何かといったら、暴力を意識の世界へ持ってくることだと思う。人間には暴力をふるう力があるんですよ。ついカッとなって殴るようでは武道家じゃないんですよ。完全に冷静に計算して殴らないと。僕昔、強かって黒帯だったときはね、強かったよ。誰か暴れるじゃないですか。僕を殴るじゃないですか。パンチが飛んでくるじゃないですか。見えるんですよ、おー来たな!ピューッって。そしたらギリギリぴゅっとよけて、手をつかむんですが、今はダメです。今はボコンと殴られますが。武道というのは、人間の無意識的な衝動であるところの暴力を完全に意識の制御下に置くことを武道って言いますね。考えてみるとそうでしょう。だからまったくふるわないでいられるんです。あるいは完全に冷静にふるうことができるんです。これが日本人の理想なんです。だから日本人は暴力を制御しています。暴力をなくしたんじゃなくて、意識の制御下に置いたんです。これが唯一の答えだと思う。だから、「殺せ、殺せ」はいいんです。暴力的になることはいいんです。ただそれをきちっと制御できるように育てればいいと思う。剣道だとか空手だとか柔道だとか合気道だとかいうのは、われわれの民族の宝ですから、これもね日本画とか短歌とか歌舞伎とかと同じように大切に育てていかないといけないと思う。和風ポップスと同じように、美空ひばりとも同じように育てないといけないと思う。日本の伝統なんです。それはポジティブな役割を持っているからこそ生き残ったんだと思う。そう思いますから、あんまり動揺しないで。「殺せー!」と言うからといって、うちの子はサディストじゃないかとか、殺人鬼になるんじゃないかと思わないで。それは男の子の成長の発達だし、そこが良い方向へ出るかもしれん。良い方向へ出るかどうかは、だから「人々のために生きよう」という請願をするかどうかによっている。(野田俊作)