Q
 自分が選んで死にたいものだと思います。ところで、聖書の中には「近いうちにこの世の終わりが来る」と書かれていますが、“エホバの証人”の人に教えてもらいながら聖書を読んでいるうちに、聖書に書かれていることを正しく守り行うとすれば、エホバの証人にならざるをえないような感じがしてきます。でも私は、来るべき楽園よりも今生きていること、毎日の生活のほうが大切なので、エホバになる気はないのです。それでも聖書を読んでいると、「まるでパズルが完成するように神の存在は形あるものではない」と書いてあります。世の終わりが来るということが本当かもしれないと思っています。野田先生は聖書についてどのような考えをお持ちですか?

A
 例えば世の終わりが来るとしましょうよ。何かわからないけど、人類が滅びるときが来たら、なるべく私も一緒に滅びたいものだと思う。1人だけ残るのは淋しい。全員一緒のほうが楽です。全員は滅びないけど、エイズみたいに何百人に1人とかクジみたいに死ぬとしたら、これはクジだからしょうがない。死ぬ側が当たったら死ぬしかない。だからといって生物の大循環には何も起こってない。そうびっくりすることではないと思う。
 死んでから“あの世がある”説に基本的に賛成しない。賛成しないからといってもあるかもしれない。賛成することばかりあればいいけど、反対することもたくさんある。あの世があるかもしれない。死んでみたら「えっ?」って。あるとしたら、私は下(地獄)へ行きます。だいぶ下へ行く覚えがある。上(天国)へ行く覚えはほとんどない。しょうがない。上も下もないと思ってやっているので、最後、「しまった、あったぞ」ということになったら、下へ行きます。下へ行くと友だちがいるもの。アドラー心理学は、「この世で一番大事なのは友だちだ」と教えてくれている。家族と友だち。うちの家族も下へ行くなあ。親父もおふくろもわがままだから。子どもたちも行くなあ。そしたら向こうでもう1回集合ですわ。面子は一緒です。
 “○見の塔”のおばさんを論破したことがあるから、死んだら下行きですわ。上へ行ったら○見の塔の人ばっかりで、それもつらかろう。皆さんもそっち(下)でお会いしましょう(笑)。(野田俊作)