35,子曰く、民の仁に於(お)けるや、水火よりも甚(はなはだ)し。水火は吾(われ)蹈(ふ)みて死する者を見るも、未(いま)だ仁を蹈みて死する者を見ざるなり。

 先生が言われた。「人民の仁徳に依存する度合いは、水と火に対するよりもずっと深いものがある。水と火に依存する結果、時に焼死や溺死する人が出てくる。ところが、仁を守ってこれに殉じるという人を、今までに見たことがないのはどうしたことか」。

※浩→人間を人間たらしめる条件「仁徳」の重要性と、生活に欠かすことのできない「水・火(空気も)」の重要性を比較して、ややシニカルに仁徳の尊さを教えています。水や火に深く接しすぎて焼け死んだり溺れたりした人は多くいても、仁徳に深く接しすぎて仁のために自己の生命を投げ出した人はほとんどいない。吉川先生は、『孟子』「尽心篇」の「民は水火に非ざれば生活せず云々」は、ここの演繹であろうと解説されています。
 「仁徳」のために死ぬ人はほとんどいないということですが、「正義」のために死んだ人はたくさんいます。「仁徳」には死ねなくても「正義」のためには死ねるのかと思うと、人間は不思議です。死んで何もできなくなるよりも、生きていて「できること」をするほうが、生まれてきた意味が活かされるように私は思います。「死んで花実が咲くものか」です。
 「仁徳」の連想で「仁義」は孟子の説です。「仁義」と「正義」とは同じか?違うでしょう。やはり『孟子』にあります。
 孟子曰く、「仁は人の心なり。義は人の路(みち)なり。其の路を舎(す)てて由(よ)らず。其の心を放ちて、求むることを知らず。哀しいかな。人は鶏犬の放つことあらば、之を探し求むることを知るも、その心を放ちて之を求むることを知らず。学問の道は他なし。其の放心を求むるのみ」。
 孟子が言うには、「仁とは人の心である。義とは人の路(みち)である。その路を捨てて従おうともしないし、その心を放ち失ってしまってもそれを探し求めることを知らないことは、哀しいことである。人は自分の飼っている鶏や犬がどこかへ行ってしまうと探し求めるのに、自分の本心を探し求めることを知らない。学問の道というものは、他でもない。この失った本心を取り戻そうと求めることにあるのみである。
 「正義に死す」というのは好きではありませんが、昔、アリスというグループがヒットさせた「砂塵の彼方」という歌は好きでした。谷村新司さんは先日亡くなられました。ご冥福をお祈りします。↓

 外人部隊の若い兵士は
 いつも夕陽に呼びかけていた
 故郷(ふるさと)に残してきた人に
 自分のことは忘れてくれと
 不幸を求めるわけじゃないけど
 幸福(しあわせ)を望んじゃいけない時がある
 いつも時代は若者の
 夢をこわして流れてゆく
  ……

 これは「死の讃歌」ではなくて、「反戦歌」だと思います。