移住計画
2001年12月14日(金)

 鳥取県に住んでいる友人が大阪に来てくれた。この季節、日本海側は雨や雪が降り、そうでなくてもどんよりと曇っていて、北風が吹き海は荒れる。瀬戸内へ来ると、空は真っ青で暖かく、彼女はいつも、「どうして晴れているの!」と怒る。大阪へ越しておいでよ、と言いたくなるが、仕事もあるし家族もあるし、そう簡単には引越しできないよね。
 日本海側に、何人か親しい友人が住んでいて、冬になるといつも気の毒に思う。大阪の冬は、そんなに寒くないし、天気のよい日が多く、水や食べ物もおいしくなり、いい季節だ。一年で、晩秋と早春がいちばんいい季節だと思う。真冬も悪くはない。これは北国の人にはわからないだろうな。
 年をとったら、大阪を離れて、どこか地方都市で住みたいと思っている。本格的な田舎は、どうして暮らしていいのか知らないので、そうじゃなくて、地方の県庁所在地やそれに近い都市部に住みたいのだ。私は本屋や釣具屋やカメラ屋に通いたいし、パートナーさんはブティックに通いたいだろうし、いくらかお稽古ごともできるといいだろう。そうなると、県庁所在地程度の大きさの都市でないと難しいだろう。都会生れの都会育ちは、都会でないとくつろげないみたいに思う。
 いつも南の国が候補にあがっているのだが、先日、パートナーさんはある日本海側の県を候補にあげた。冗談じゃありませんぜ、冬の間、どんよりとした空の下で暮らすのはまっぴらだし、雪の降る生活ってどうすればいいのか知らないし、酒も甘いし、食べ物はからいし。
 ま、彼女はいつも気まぐれにいろんなことを提案する。そうして、次々と気が変わっていく。本気になった時には、そのことがらに関する本を買ってくるので、すぐにわかる。猫を飼うときもそうだったし、ダイビングをはじめるときもそうだった。机の上に北国の本がならんだときは要注意だ。
 ともあれ、冬は瀬戸内や太平洋側がいい。夏の瀬戸内は最悪だがね。



構成された不幸
2001年12月15日(土)

 大阪の事務所の私物の片づけをしていた。昔の書類で、いやな思い出のくっついたのが出てきて、ちょっと不幸な気分になってしまった。そこに書かれている事案は、終わってしまってもう何年もなるのだが、読み返すとやはり不幸な気分になる。このように、いやなことというのは、思い出すと、それがおこったときと同じくらい不幸になるので、一度おこるといつまでも意味があるように思う。それに対して、いいことを書いてある書類を読み返してもそんなに嬉しくならないようなので、いいことというのは、終わってしまうと意味を失うような気がする。
 考えてみると、世の中には、一瞬ないし短期間それがおこれば、それが終わった後でも持続的に意味のあることがらと、ずっと持続しておこっていないと意味のないことがらとがある。たとえば、禁酒だの禁煙だのはずっと持続していないと意味がないし、自殺などは一度おこるだけで持続的に意味がある。健康はずっと持続していないと意味がないし、後遺症の残るような事故や病気は一度おこると永久に意味がある。
 人生の楽しいことの多くが持続的におこっていないと意味のないことで、苦しいことのほうは一度でもおこると、それが終わってしまってもいつまでも意味のあることがらが多いように思う。もっとも、そう思うのは、私の躁鬱的な性格によるのかもしれない。
 ちょっと待ってよ、上の対照表は、ちょっと不正確かもしれないな。禁酒は持続しないと意味がないとか、健康は持続しないと意味がないとかいうのは本当だが、じゃあ、禁酒している人が一度飲酒することと、健康な人が事故死するとととは、同じ範疇のことがらだろうか。禁酒している人が飲酒した結果、ふたたびアルコール依存に戻ったとする。それは、心理的なできごとか物理的なできごとか。心理的なできごとだろう。健康に暮らしていた人が交通事故で死んでしまったとする。それは心理的なできごとか物理的なできごとか。物理的なできごとだろう。ははあ、「一度だけおこって意味がある不幸」には2種類あるんだ。
 たとえば、昔の書類を見て、その事案が終わってしまっているのに不幸に感じるのは、心理的なできごとであって物理的なできごとではない。つまり、構成された現実であって実在する現実ではない。なあんだ、そうだったのか。この区別は重要かもしれないな。たとえばレイプされた女性におこっている不幸は、実は心理的なできごとだし、「えひめ丸」で死んでしまった人たちにおこったのは物理的な不幸だが、残された人たちにおこったのは心理的な不幸だ。被害者たちはそう簡単に割り切れないだろうが、治療者がその区別をしっかりつけておくことは重要なことだと思う。



構成された不幸(2)
2001年12月16日(日)

 東京の事務所の忘年会をした。事務所のスペースを片づけて、鍋料理をする。お客さんにも来ていただいて、ゆっくり時間をかけて盛り上がる。近所のイタリヤ料理屋さんからパスタなどを出前したり、あちこちから持ち込まれたお酒を飲んだりして、おしゃべりをしたり歌を歌ったり、なんだかわけがわからなくなるまで遊んでいる。
 帰りがけに、山仲間の一人(女性)が、「いい思い出を思い出すと、いつでも嬉しくなる」と言っていた。あれ、昨日私が書いたのと違うぞ。私は「悪い思い出を思い出すと、いつまでも悲しくなるが、いい思い出は思い出してもそんなに嬉しくならない」と書いた。やはり、性格で違うんだ。
 性格の違いかもしれないが、男女差かもしれない。むかし、沖縄へダイビングに行ったことがあって、そのとき私とパートナーさんの他に、もう一組夫婦連れがいた。お昼休みに、波の静かな湾内に入って、食事をした後、奥さんが海へ飛び込んでスキンダイビングを楽しんでいたが、海面へ顔を出すたびに大きな声で「楽しい!」と叫んだり、大笑いしたりする。女性はあんなに素直に喜べるんだと、感心してしまった。
 男性は、育児の過程で、喜びや悲しみの感情を素直に表現することを「男らしくない」といって抑圧されたのかもしれない。怒りの感情は抑圧されないので、面白みがなくて怒りっぽい男ばかりできてくるのかもしれないな。男性も、もっと喜びや悲しみを素直に表現できるようになったほうがいいし、そのためには男の子たちを育てるときにも、「男なんだから辛抱しなさい」などと言わないほうがいい。そうすれば、「悪い思い出を思い出すと、いつまでも悲しくなるが、いい思い出は思い出してもそんなに嬉しくならない」というような困った性格に育たないですむかもしれない。