「あるがまま」の不道徳性
2001年12月12日(水)

 ニューヨークのテロ事件以来愛読紙となった『ニューズウィーク』の12月19日号に、イギリスのラップグループ「ファン・ダ・メンタル」のリーダーをしているパキスタン移民二世アキ・ナワズへのインタビュー記事があって、その中で彼が次のようなことを話している。
 欧米の社会には精神性がまったくない。みんな自分の足で歩けと教えられ、実に自由に生きている。でも、人間味がない。この社会では、魂が豊かにならない。イスラムは物質主義や資本主義に反対しているわけではないし、ビジネスも奨励している。だけど、道徳心を持てと教えてもいる。
 今、松本史朗『道元思想論』(大蔵出版)を読み返している。その中で著者は、道元は前半生では「仏性顕在論」の立場から「仏性内在論」を批判していたが、後半生では意見が変わって、「深信因果」の立場から「仏性顕在論」を批判していると書かれる。仏性内在論というのは、「身体は無常で滅びるが、永遠不変の魂がある」という理論であり、仏性顕在論というのは、「身体も精神も無常のままで絶対の真理である」という理論のことだ。道元は、若いときは仏性顕在論に凝り固まっていた。そう思って読むと、難解をもって知られる『正法眼蔵』も、とてもよくわかる。
 仏性顕在論は今でも日本仏教の多数説だ。だって、僧侶や仏教学者の多くは、「煩悩即菩提」だの「あるがままが尊い」だの「一切は仏さまのおはからい」だのと言うが、これらは、ちょっと考えてみると、仏性顕在論だとわかる。「迷いと悟りがあると思うことが迷いであって、迷いもなく悟りもなく、ただ一切が真理の中にある」などと聞くと、いかにもありがたいではないか。しかし、道元は、晩年になってこれを批判する。
 道元が仏性顕在論を批判するのは、それが因果を否定するからだ。それはそうだよね、「煩悩即菩提」であれば、修行して悟ることはないもの。「よいこと」と「わるいこと」をきちんと選り分けて、「よいこと」を選んで行為していくこと、仏教スラングを使うなら「善業を積む」ということが仏教のABCだと思う。仏性顕在論からは、「『よいこと』と『わるいこと』を分別することがすでに迷いだ」という論理的な結論が出てきて、それで日本の仏教はかぎりなく堕落した。
 その堕落の上に、現代社会の諸問題あるのだと思う。資本主義・民主主義・自由主義という三人姉妹は、もう一人、深信因果ということをつけ加えないと、「自由に生きている。でも、人間味がない」ということになってしまわざるをえない。「清濁併せ呑んで一切を全肯定する」仏性顕在論と縁を切り、善因善果、悪因悪果という、とてもシンプルな原理でもって生きるほうが、より人間らしく、より「魂が豊かに」、生きられるんじゃないかな。



性的ペルソナ
2001年12月13日(木)

 人間には複数の人格(ペルソナと私は呼んでいる)があると、このごろ強く思うようになった。人間は、ほんらい多重人格者なのだ。たとえば、まじめに仕事をしているときのペルソナと、セックスしているときのペルソナとは、まるで違っている。もちろん、仕事的ペルソナと性的ペルソナの他にも多数のペルソナがあるように思う。
 ところで、人間には発情期がない。動物だと、セックスするときとしないときとが、生理的に決定されている。しかし、人間はそうではない。かといって、年中セックスしているわけにもいかない。そこで、性的なペルソナができて、それが顕在化しているときだけセックスすることにしたのではないか。それがそもそもペルソナの発生の最初であるのかもしれない。「人間に発情期がないから人格が発生した」という主張は、そうであるともそうでないとも証明できない思弁であるにすぎないが、なんだか説得力があって好きだ。発情期があれば、別にペルソナなどなくても生きていける。発情期があれば「心」はいらないし、発情期がないから「心」が発生した、ということだ。フロイトが聞いたら喜ぶだろうな。
 ところで、社会構築主義者によれば、およそペルソナは、社会的な文脈によって顕在化するので、性的ペルソナも、それを顕在化させる文脈があることになる。それは確かにあるね。いわゆる「ムードを盛り上げる」というやつだ。そうして、両者が「その気」になる、つまり両者が性的ペルソナを顕在化させると、セックスが可能になる。その文脈がないときに、いきなりセックスを挑むと、それはレイプだ。男性は、女性がどうであるかにかかわりなく性的ペルソナを顕在化させることができるのだろうか。イマジネーションで顕在化させるんだな、きっと。女性はイマジネーションでは性的ペルソナを顕在化させないんだろうか。どうなのかな。