13,閔子騫(びんしけん)、側(かたわ)らに侍(じ)す。誾誾如(ぎんぎんじょ)たり。子路は行行如(こうこうじょ)たり、冉有(ぜんゆう)と子貢(しこう)は侃侃如(かんかんじょ)たり。子(し)楽しむ。曰く、由(ゆう)の若(ごと)きはその死を得じ。

 閔子騫らが先生の側近くに控えていた。閔子騫の様子は、中立的でほどよく落ち着いている。子路の様子は、力強くて剛直すぎる感じである。冉有と子貢の様子は和やかな雰囲気である。先生は門人たちの様子に楽しげに見えた。が、言われた。「子路のような激しい気質では、天寿をまっとうすることはできないだろう」。

※浩→弟子たち一人一人の気質・性格と長所・短所を適切に理解していた孔子が、にこやかな表情で弟子の様子を眺めて評しています。ただ、血気盛んで勇気に満ちた子路の先行きを、その気性の激しさゆえに生命を失うことになるのではないか(普通の死に方はできない。日本ふうに言えば「畳の上で死ねない」)と強く案じていました。はたしてこの不吉な予言と忠告は的中し、衛国の内乱に巻き込まれて惨殺されてしまいます。この場に最愛の顔回がいないのは、すでに亡くなったあとのことだということです。
 子路は、「行け行け、GoGo!」タイプなのでしょう。儒学は「中庸」を大切にしていますが、こういう弟子もいて多様です。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で、人間の行為や感情における「超過と不足」を調整する徳として“メソテース(中間にあること)”を挙げています。日本語訳では儒教用語から「中庸」を当てました。例えば、勇気は蛮勇と臆病の中間的な状態を言います。この両極端の中間は知性的徳のうちの「思慮」が教えてくれます。「思慮分別」というのは良い響きの言葉です。「分別くさい」というとネガティブな響きがありますが、勇気も分別を欠くと、ただの「暴勇・蛮勇」になってしまいます。子路の勇気はこれだったのでしょうか。アドラー心理学では「勇気」は大切な概念で、育児・教育のコツをひと言で言えば、「勇気づける」ことに尽きます。ここでも、勇気はただ「行け、進め」を言うのではなくて、「共同体に対して建設的・有益に行動できるように援助すること」だと言われています。逆に言えば、勇気があれば建設的に行動ができ、勇気がない(臆病)だと共同体に対して破壊的・有害な行動をする、ということです。ただこれは口でいうはたやすく、実行するのはかなり困難です。私たちはともすれば、肝心の場で勇気を発揮できないで、保身のために臆病な態度を取ってしまいます。あとで大変後悔するものです。“Be ambitious! 我が友よ 冒険者よ 旅立つ人よ 勇者であれ……”という歌声が耳に響いてきます。