抑圧的政治(2)
2001年11月16日(金)
遠藤周作に『沈黙』という小説があって、キリシタン迫害の物語だ。さまざまの人物が出てくるが、迫害される前に「ころぶ」人もいるし、拷問を受けてからころぶ人もいるし、拷問を受けてもころばないで死ぬ人もいるし、ころんでから迫害者に変身する人もいるし、他のキリシタンを密告する人もいる。
その中に、主人公のパードレ・ロドリゴを何度も裏切るころび切支丹キチジローという人が出てきて、次のように言う。
この俺[おい]は転び者だとも。だとて一昔前に生まれあわせていたならば、善(よ)かあ切支丹としてハライソに参ったかも知れん。こげんに転び者よと信徒衆に蔑[みこな]されずにすんだでありましょうに。禁制の時に生まれあわされたばっかりに....。恨めしか。俺は恨めしか。(新潮文庫版 p.148)
宗教迫害のないときに敬虔な信者であっても、ちゃんとした信者とはいえないと思う。迫害に屈しないで殉教するのが、ほんとうの信者だろう。私は過激派なので、そう思っている(カトリックじゃないけれどね)。もっとも、私も、実際に迫害される立場になると簡単に「ころぶ」かもしれない。口は達者だが、根は臆病だから。ころんでから、なにか立派な言い訳を考えるんだ、きっと。
迫害に屈しないことはたしかに立派ではあるが、だからといって、「節を曲げるよりは死ね」という道徳律を他人に強制するわけにはいかない。自分でも守れるかどうかわからないのだから。しかし、「節を曲げてでも生きよ」という道徳律を奨励するわけにもいかない。だから、抑圧的な制度をなくすことだ。卑怯者でも卑怯なふるまいをしないで生きていける社会を作ればいい。つまり、言論の自由とか信教の自由を保証すればいい。言論の自由や信教の自由とかは、道徳を退廃させるのではなく、かえって人を道徳的にふるまわせるのではないか。昨日書いたように、女性のブロマイドが売られたり、それが高じるとインターネットのアダルト画像になったりするかもしれないが、それでも、人を密告したり、迫害者のお先棒をかついだりするよりは、うんと道徳的なんだ。
結婚しない若者たち
2001年11月17日(土)
不登校児や非行少年の親のカウンセリングが主な仕事なのだが、20年以上もやっていると、当時は中学生や高校生だった子どもたちが、今ではいわゆる「適齢期」になっている。しかし、結婚するという話をめったに聞かない。なぜなんだろう。
女の子については、社会的に自立もし、それなりに人生の設計がある人が多い。ところが、男の子たちは遅れていて、そういう女性の生き方をじゅうぶん理解できないで、むかしながらの「俺についてこい」式の、19世紀型家父長制丸出しの、「21世紀へようこそ」とでも言わなければならない認識しかもっていない。そこで、女の子たちは、結婚するとがんじがらめに縛られて、自分らしい生き方を奪われてしまいそうなので、男の子とは遊びでつきあうだけにしているのではないかな。親の話や本人の話を聞いていると、だいたいそんなことだろうと思う。
男の子のほうは、両親や友だちの夫婦を見ていて、夫なり父親なりが、かなり面倒くさい仕事だということに恐れをなしている子が多いように思う。これはアドラー心理学を学んでいる家族だけの特性かもしれない。アドラー心理学を学ぶと、「夫婦関係は、庭のようなもので、たえず手入れしておかないと雑草が生えて、やがて枯れてしまう」というわけで、夫も妻も夫婦関係をいい状態に保つためにたえず努力する。一昔前の夫たちは、家へ帰れば寝っころがってTVを見ていればよかったのだが、アドラー心理学を学んでしまうとそうはいかなくなって、家事もするし、妻の相談にも乗るし、一緒に遊びに出たりもする。そういう父親を見ていると、男の子たちは、「面倒だなあ。あそこまでして結婚したくないな」と思ってしまうのかもしれない。しかし、手をかければ手をかけただけ、いいことがあるんだがね。
アドラー心理学を学んでいない家族の子どもたちについてどうなのだかは、私にはわからない。しかし、多かれ少なかれ、同じような状況があるのではないだろうか。すなわち、女性の自立が一方にあって、男性のほうは、昔ながらの権威主義者なので女性から嫌われてしまうか、あるいは民主的な夫にならなければと思うが、あまりの面倒くささに億劫になってしまうか。(野田俊作)