無我と利他
2001年09月11日(火)
アドラー心理学関係の雑誌に、「新大久保の駅で、線路に落ちた人を助けようとして、電車に轢かれて3人が死んだ事件があったが、あの人たちは、仏教でいう『忘我利他』の精神で行動したのであって、アドラー心理学ではその行動を説明できない」という趣旨の論文が投稿されたが、査読委員が掲載を拒否したのだそうだ。ところが、著者から反論があったとかで、編集部の人が私にその論文を見せて、仏教から見るとどうなのかと尋ねた。私は、この論文の査読はしなかったので、そのときはじめて見たのだが、アドラー心理学についてもおかしな解釈をしているなと思ったし、仏教のほうも間違っていると思った。アドラー心理学のほうはともかくとして、仏教のほうについて、私の考えを書いてみる。
仏教徒が利他的でいられるのは、『無我』ということについて思い慣れているからだ。すなわち、「わたくし」というものが存在すると、われわれは日常なんとなく思い込んでいるが、実は「わたくし」というものは実在するわけではなく、たえず移り変わる現象に、われわれが勝手にアイデンティティを投影しているものであるにすぎない。われわれが「わたくし」と思い込んでいるものは、実は諸元素が縁起によって離合集散するものであるにすぎない。たとえば、松明を振り回すと火の輪が見えるが、その輪は実在するわけではない。しかし、われわれには、あたかも輪が実在するかのように見える。「わたくし」というのは、この火の輪のようなものだ。
自分もそうであるが、他者もそうであって、その人たちにも「わたくし」があるわけではない。そういう意味で、自分の「わたくし」と相手の「わたくし」に、なにか隔たりがあるわけではない。この世界全体が、「縁起によって離合集散する諸元素の流れ」なのだ。「わたくし」と「わたくし以外」を区別する根拠は、なにもない。全世界が、縁起によって離合集散する諸元素の流れであって、そこになにかの区別をする必然性はなにもない。
「わたくし」が存在しないのだから、「わたくしのもの」も存在しない。「わたくしの財産」や「わたくしの家族」は、縁起によってたまたま私のそばにいるだけのもので、私はそれらにたいして、本当の意味での所有権はもっていない。物質的なものだけではなくて、たとえば、「わたくしの命」でさえそうだ。命は、縁起によってたまたま私のそばにあるが、私の所有物ではない。因縁が散ずれば、私のもとから去っていくだろう。
だから、相手を助けるのも助けないのも、それほど重大な出来事ではない。ただ、相手が助けてほしがっているから、それなら助けてもいいなと思うだけだ。命を失うも失わないも、それほど重大な出来事ではない。命を失う必要があれば失うだけだ。
このように感じるためには、『無我』ということについて、繰り返し繰り返しヴィパッサナ(瞑想の中で観察すること)をして、こういう見方に思い慣れておかなければらなない。中国や日本の仏教では、こういうことはあまり強調されないようだが、インドの大乗仏教の論書では、繰り返し繰り返し、こういう瞑想の重要さが力説される。
しかるに、新大久保で亡くなった3人は、そういう修行をしていたわけではない。だから、それは、「仏教的な行為」ではないのだ。なるほど、彼らの行為は美談だ。しかし、美談だからといって仏教であるとはかぎらない。
胃袋と性器
2001年09月12日(水)
「人間は胃袋と性器から出来ていて、脳はそれらのための補助器官であるにすぎない」ということを、学生時代に私に教えてくれたのは、頼藤和寛だった。あの人は、そういう露悪的な言い方が大好きだったが、実践派ではなくて理論派だったので、大喰らいでもなければ好色でもなかったが。
私は、同じことをもうすこし上品に、「人間の行動の究極目標は、自己保存と種族保存だ」と言うことにしている。上品に言っているが、実は頼藤が言うのと同じことだ。彼と違って私は実践派なので、ああいう言い方をすると、ひどく大喰らいでひどく乱交的になってしまいそうだからね。
人間は、自己保存を否定して自殺することもあるし、種族保存を否定して禁欲することもあるが、それは脳の暴走だ。脳はどのようにして暴走するかというと、イデオロギーという麻薬にしびれたとき暴走する。イデオロギーの中でも、特に宗教的イデオロギーが効果的だ。多くの宗教が、食欲の制限と性欲の制限を神聖な行為と考えている。断食の結果自殺してしまうことを推奨する宗教もあるし、終生にわたる禁欲を要求する宗教もある。
なぜ胃袋や性器の要求をそんなに疎外できるかというと、次のようなわけだと思う。高次神経というものは、より低次の神経系に対して抑制的に働くように設計されている。抑制的な高次神経と、胃袋や性器の興奮とが、うまくバランスをとって、そうして自己保存と種族保存とをもっとも効率よく行うように、生物はほんらい設計されているのだ。さて、人間は、「言語」というものを使って、自分の姿を記述する。そのとき、誤って、脳と胃袋・性器が「対立」していると考えてしまい、さらに、脳が抑制的に働くことを「尊い」こと、胃袋や性器が活発であることを「卑しい」ことだとラベリングしてしまった。宗教というのは、自分を無限に「尊く」しようとする動きだから、胃袋や性器を誤って疎外してしまうのだ。
胃袋や性器が目的で、脳が手段なのだ。手段である脳が、目的である胃袋や性器を否定してしまうのは、自己矛盾だ。もっとも、脳の抑制をいっさい受けつけない胃袋や性器は、かえって自己保存や種族保存を阻害する。たとえば、グルメに狂奔したり、テレクラだの「出会い系サイト」だのを介して乱交的になるのは、胃袋や性器のもっとも効率的な使用法ではあるまい。
人間はときに、他者の自己保存や種族保存を否定することもあって、この場合は、政治的イデオロギーで脳がしびれていることが多い。つまり、戦争だ。犯罪だって、他者の自己保存を否定することもあるが、種族保存まで否定することはない。戦争は、しばしば敵の種族の根絶やしを試みる。ナチのように種族ごと虐殺しようという場合もあるし、旧ユーゴスラビア地域で行われたように、相手の種族の女性を強姦して種族の純潔性(それってなんだ?)を否定しようという場合もある。
宗教的イデオロギーと政治的イデオロギーが融合するともっともタチが悪くて、相手を殺すだけではなくて、自分も殺してしまう。日本でも、一向一揆はそういう風だったという。「念仏しつつ死ねば極楽往生疑いなし」という宗教的イデオロギーに鼓舞された信者たちが、死を恐れずに突撃してくるので、武将たちはとても困ったのだそうだ。もっとも、一向一揆についての私の知識のソースは小説だから、それほどアテにならないが。
アメリカで、大規模な自爆テロがおこってしまった。宗教的イデオロギーと政治的イデオロギーにしびれてしまった脳が、胃袋と性器の要求を無視してしまった。自分の胃袋や性器だけだといいのだけれど、他人のまで無視するのだから、ひどいものだ。アメリカ人は「戦争行為だ」と言っているが、まだそれほどのものではないんじゃないか。ほんとうに戦争になると、一向一揆の場合のように、もっとひどいことがおこると思う。想像したくないけれどね。
とにかく、人間は、胃袋と性器から出来ていて、脳やその働きである言語や、言語の産物であるイデオロギーは、結局のところ、自分の胃袋と他人の胃袋、自分の性器と他人の性器がうまく機能するように、補助する器官であるにすぎないんだよ。だから、脳を使うときには、胃袋や性器とよく相談してからにしたほうがいい。胃袋や性器を裏切る使い方はしないことだ。(つづく)