Q
 脳梗塞で倒れた親族がいます。病院へ行っても何と話しかけたらいいのかわかりません。野田先生だったらどんなことを話されますか?

A
 向こうがあんまり話ができないんだったら、こっちが一方的にしゃべります。「最近こんなことがあってね、こんなふうでね、あんなふうでね」としゃべって、「ほなさいなら」と言って帰ってきますわ。向こうがおしゃべりできるんだったら、普通と一緒でしょ。脳梗塞だからといって、何か変わったことがあるわけじゃない。おしゃべりできない人には、わりとわれわれは強いんです。仕事上もあるなあ。緘黙の子どもとか来るじゃないですか。あんなん全然気にせんとしゃべりますよ。こっち側の言いたいことを言えばいいわけだから、そういう人に対してもまあ最近の報告をしたりしてください。なんかやっぱり病気とか死とかいうのをあまりにも特別扱いしすぎていると思います、怖いものおぞましいものとして。相手が病人だからとかあるいは自分が病気だからとか、相手がもうすぐ死ぬからあるいは自分がもうすぐ死ぬからといって、つきあい方を変えないといけないとは思わない、本質的には。本質的には普段どおりのつきあいが続けられればいいと思うし、死ぬ瞬間まで普段どおりのつきあいを続けてもらったらいいと思うし、死んでからも普段どおりのつきあいを続けていってもらってもかまわないと思うんですよ、ほんとはね。ただ多くの人がエゴに囚われていて死というものを嘆き悲しむもんだから、だから仏教は慈悲で七日ごとに法事をやって忙しくして嘆き悲しむヒマがないようにしてくれている。それだけの意味しかない、あんなもん。実際、人が死にますと忙しくてしようがないんですよ。忙しくしておかないと、皆嘆きよるんです。人の死って、そんなに嘆かわしいことではないと思う。私の親族だと、祖母が亡くなりました。あれ、良かったなと思います。祖母はね、小脳変性なのかしら。パーキンソンなのかしら。僕も親父もあのへんはヤブなのでよーわからんけど、最後、体が動きにくくなって歩くのなんかが不自由になってたんですよ。だから動きにくくなった体を捨てて、毛皮替えてもう1回来られるのは、本人にとって幸せだし、あの人も一生自分の好きなことをして暮らしたし、まあ良かったんじゃないかと基本的に思う。それから、父も良かったなあって、あれもまあほんとに。開業医で金曜日に診察をして、晩寝て、土曜日の朝起きてトイレ行く途中心筋梗塞で倒れて、その音でお袋さんが行ったらまだ生きてて、お袋さんの腕の中で死にましたから、愛する妻の腕の中で死ねるなんて、あんだけ好き勝手して悪いことをしたヤツがあんな良い死に方をするなんてどういうことだと、息子3人不思議がったんですけど、悪い人じゃなかったけどわがままな人だったからね、極端に。だからまあ別に嘆き悲しむべきことじゃなかったと思います。死というものを、初めから怖いこと、悲しいこと、不安なこと、わけのわかんないことという捉え方は、午前中言いましたが、近代的なこと、個人主義的な権利主張的な自我の考え方なんです。そこから僕らが出さえすれば、もうちょっと扱いやすくなるんです。死というのは相変わらずわれわれの力を超えたもの、僕らが制御できないものではあるけれども、まあ人生ってそんなもんなんです。僕らが全部を支配できると思っていること自体が間違いなんです。10人いる子どもが8人死ぬと言ったじゃないですか。それが人生っていうものなんですよ。そこで全員生かそうと思うことがむしろ僕らのエゴなんだ。だからもうちょっと自然に即した生き方、人間の欲を全面肯定しない生き方へちょっと変わっていったほうがいいんじゃないかしら。もうちょっと人間を個体としてじゃなくて、共同体に組み込まれたものとして考える考え方に変わっていったほうがいいんじゃないかしら。もうちょっと病気とか死とかを、日常的なありふれたこととして捉えられるようにしていったほうがいいんじゃないかしら。あまりにも特別に、死ぬということをタブー視しているということが、極端な移植医療なんかを作ってくるし、一方では極端な緩和ケアをやるようになる。ある程度の緩和ケアは賛成なんですよ。度を超してやるのは賛成じゃない。何ごとも「過ぎたるは及ばざるごとし」ですから。(野田俊作)