精神鑑定(3)
2001年06月19日(火)
ある内科のお医者さんから、「記述精神医学で鑑定書を書くべきだという取り決めはないのか」という質問をいただいた。ないんだね。それどころか、力動精神医学で鑑定書を書くべきだと力説する学者さえいる。急先鋒は、マスコミにもよく登場する福島章氏かな。彼の『精神鑑定』(有斐閣選書)には、次のような記載がある。
日本の精神医学は昭和三十年代から大きく変貌して現在に至った。それが進歩であるのか混乱であるのか、という吟味はおくとして、ドイツの古典的な精神医学の他にも実は多く学派が存在すること、それらが治療的にも臨床的にも多くの有用性をもつことなどが理解され始めたのである。とくに、アメリカ精神医学の大きな柱の一つである力動精神医学は、もともとはフロイトの精神分析学から発した流れであるが、これは精神科医の治療・診断の実践の道具として今日無視することができないほどに成長し、かつ普及した。
古典的な司法精神医学が精神分析学を蛇蠍(蛇蝎=蛇とサソリ)のように嫌悪し拒否していたことは、現在の新しい事態をいっそう深刻にしている。ヤスパースはフロイトの精神分析を、真の科学、真の了解ではなく、「かのような了解」にすぎないと批判し、古典的な司法精神医学は、精神鑑定に分析的な解釈を導入することは鑑定の客観性を損うものであると強く戒め、タブー視している。しかし、有用な道具を使わないと解明できないケース、問題も多いので、新しい精神医学を学んだ人々にとって、司法精神医学は魅力に乏しい分野となりつつある。 (pp.17-18)
こうして、精神鑑定にも力動精神医学的方法を導入すべきだと力説し、実際、この本の中にも、殺人未遂を犯した精神分裂病(統合失調症)者の事例を、メラニー・クライン(!)の理論を援用して鑑定している(前掲書 pp.93-98)。
なぜクラインのあとに「!マーク」かというと、クラインの学説は、フロイト派の中でだって一般的には承認されていない、きわめて異端的なものだからだ。いちおう正統フロイト派かなと思われるマイケル・バリントが、「クラインは乳児の心の中を、まるで見てきたようになんでも言葉にする」という意味のことを言ってあきれている。クラインはイギリスにいるので、同じくイギリスにいるバリントは名指しで批判しているが、アメリカでは、「私はクライン派です」というのは、人前で言うのはちょっとはばかられるほど恥ずかしいことなんだそうで、だから名指しの批判すらされない。ところが日本では、妙にうけている。
フロイト派さえあきれるほどだから、精神医学一般の世界では、まったくお話にならないほど奇怪な珍説だと考えられている。なんでも、赤ちゃんは、「よいおっぱい」と「わるいおっぱい」があると思うんだって。「よいおっぱい」にはキスしてあげるけれど、「わるいおっぱい」なんか噛んでやるぅ、思っているんだそうだ。まだ小さくておバカだから、それが同じ母親にくっついているとわからないんだね。そのうち、同じお母さんにおっぱいがくっついているとわかって、「ごめんねママ」って思うんだって。しかして、「よいおっぱい」と「わるいおっぱい」が分裂しているのが分裂病(統合失調症)のはじまりで、「ママごめんね」と思うのがうつ病のはじまりなんだそうだ。ちゃんちゃん。
こういう「そうであるとも、そうでないとも、証明できない」説は、科学理論とは言わない。迷信というのか、神話というのか、とにかく邪説ではある。そういうもので裁判されたのではかなわない。科学的な根拠のある学説でもって鑑定をしてほしいものだ。
福島氏がクラインを信奉されるのは自由だし、それにもとづいて臨床実務をされるのも自由だが、鑑定に関しては学会の多数説に従ってほしいものだ。いつの日かクライン説が日本の精神医学の多数説になれば(そんなことにはならないと思うが)、そのときはその説にもとづいて鑑定書を書かれてもいいと思う。
外傷神経症
2001年06月20日(水)
大阪教育大学付属小学校で、子どもを8人も殺す事件が発生して、学校もマスコミも一斉に子どもの「心の傷」について言いたてている。私はもともとPTSD(外傷後ストレス障害)という概念について考えるところがあるので、こういう騒ぎ方を好ましく思っていない。
1980年にアメリカ精神医学会の『診断統計マニュアル(DSM)』がPTSDという診断名を提唱する以前は、戦争や災害や犯罪などの強いストレス事態の後でおこる異常な情動反応は「外傷神経症」「戦争神経症」「災害神経症」などと呼ばれていて、私は1972年に大学を出たので、その名前で理解していた。ストレス事態があれば、誰だって情動的な反応をおこす。たとえば、家族や友人が殺されたりすれば、誰でも嘆きもし悲しみもする。人によって、この反応の強さは違っていて、ある人々は、人並はずれて強い反応をおこし、かつ長い間反応が持続する。「外傷神経症」などという名前は、そういう場合を指している。要するに、その人の「神経症的素質」に注目しているわけだ。ところが、PTSDという名前では「神経症」だということが隠蔽されてしまって、誰でもがそういう異常反応を起こすかのように受けとられる危険がある。(DSMでは「神経症」という名前は使われないで、「障害 disorder」という名前が使われるので、製作者たちは神経症だという意識はもっていたと思うのだが)。まして、「心の傷」というような、ある心理学の流派のドグマに立脚した理論を無批判に導入すると、神経症的な異常反応であることが隠されてしまって、誰でも心の傷を負うかのように思い込む。事実は、強い反応をおこす人もあるし、おこなさい人もある。強い反応をおこす人は、もともと強い反応をおこす素質があったのだと考えられる。
阪神大震災や雲仙普賢岳噴火の被災者や、レイプや児童虐待の被害者のPTSD発生率に関する研究をいくつか読んだが、ひとつの問題点は、研究者たちに「正常の反応」と「神経症的な反応」を区別する意識がないことだ。もっとも、質問紙法では、この区別は不可能だと思うが。また、反応の出ていない人もいるわけで、反応の出る人と出ない人の対する個性ないし環境の違いについての記載もない。
もう一度、むかしながらの「外傷神経症」という名前でPTSDをとらえなおして、神経症反応として理解すると、見失われているものが見えてくると思う。