自我の狂宴
2001年05月22日(火)

 頼藤和寛君(野田先生の親友)の『ココロとカラダを超えて』(ちくま文庫)を、少しずつ読んでいる。「エロス・心・死・神秘」という副題がついていて、中身も、この副題に沿った4章に分かれている。『自我の狂宴』(創元社)という本を文庫化したものだ。『自我の狂宴』(創元社)は彼から贈呈されて持っていたのだが、同じ本だと知らないで文庫本を買ってしまったのだ。私は同じ本を何冊も買う人なので、別に悔しがっているわけではないよ。
 1986年だから、私が『オルタナティブ・ウェイ』(星雲社)(後に『アドラー心理学トーキングセミナー』と改題。この題は、私はあまり好きではない。だって、あれ、アドラー心理学の本じゃないもの)を出したのと同じころに彼が書いていた本だ。38歳か39歳だ。彼も私も、ようやく大人になったと感じることができた年頃だ。彼は「若書き」という言葉を使うが、確かに青春の総決算のような本だ。
 中身は、買って読んでいただきたいのだが、学生時代から、ことあるたびに彼と私が語り合ったことが書いてある。私は私の側からそれを書いたし、彼は彼の側から書いたわけだ。彼も私も、この話題にエネルギーのほとんどをつぎ込んでいたので、この世にいる間に本当に書きたかったことを書けて、しあわせだった。私は、それで満足してあまり本を書かなくなった。彼のほうはその後もたくさん本を書いたけれど、あれは人のために(ひょっとすると金のために)書いていたのだろうが、この本は、まったく自分のために書いてある。
 私は速読なのだが、この本は、とてもとてもゆっくりと読んでいる。彼はきわめて恥ずかしがり屋なので、「エロス・心・死・神秘」というような話題をまじめな口調で語ることができず、一種おどけた言い回しに終始するが、実際はきわめて真剣にそれらのテーマと向かい合っていることを私は知っている。おどけた口調の向こう側にある、彼の真面目(「しんめんもく」と読んでね)を、もう一度きちんと見届けたい。



出会い
2001年05月24日(木)

 「出会い系サイト」というものがあって、それを使って異性交遊して、あるいは殺されてみたり、あるいは浮気してみたりで、なかなか大変なことのようだ。「出会い」という言葉も、とうとうこんなふうに使われるようになったかと、変に感動している。
 私個人は、1970年代に実存主義精神医学と関係しながら Begegnung というドイツ語で最初に知って、「自己の態度の定め方や発展や見方などに決定的な影響を及ぼすような人と遭遇すること」(西丸四方編『臨床精神医学辞典』南山堂)という意味だと理解した。これは、分裂病(統合失調症)者が妄想によって『出会い不能性』に陥るという文脈で語られていたので、相手が重要人物であるかどうかということではなくて、自分の側に人と本当に出会う用意があるかどうかということが問題にされていたのだ。もうちょっと広い文脈で言うと、マルティン・ブーバーが『われと汝』という本の中で、「われ-それ」関係と「われ-汝」関係とを区別していて、「『それ』ではなく『汝』として人と出会う『われ』であることはいかにして可能であるか」ということが問いかけられている。これって、私の青春時代には、かなり切実な問いだった。先日触れた頼藤和寛の『自我の狂宴』も私の『オルタナティブ・ウェイ』も、その問いへの1つの答えとして書かれたんだと思っている。
 次に出会いということばと出会ったのは1980年代で、このときは encounter という英語だった。どうもドイツ語で言うほど聖なるものではなくて、「心と心のふれあい、ホンネとホンネの交流」(国分康孝編『カウンセリング辞典』誠信書房)という意味程度まで「堕落」していた。これじゃ、銭湯かどこかで裸になって世間話をしているみたいじゃないか。あるいは、呑んだくれて言いたい放題を言っているみたいでもある。実際、アメリカ人の理解はそれに近くて、ロジャースが「エンカウンター・グループ」という変なものを発明して、「呑んだくれて言いたい放題を言う」のに近いような擬似的な「出会い」体験を売りに出したりしたのだ。ドイツの哲学者や精神病理学者が言っていたのは、そんな下品なことではないと思っていたのだが、まあ、なんでも商売にするアメリカ人にかかっては仕方がないね。
 日本に入って、もっと「堕落」して、とうとう「出会い系サイト」にまで落ちぶれてしまった。むかしの恋人が風俗おネエさんになっているのに出会ったような感じだな。むしろここから、現代の日本社会の『出会い不能性』がきわだって見えてくる。人間に覚悟がないので本質的な出会いが不可能になっていて、そこで、覚悟なしで安易な擬似出会いを体験できる場が求められて、そういう場を提供することが商売になるんだ。それは、エンカウンター・グループも「出会い系サイト」も、構造としては同じだ。しかし、ドイツ人たちが言っていたのは、「私」が他者と向かい合うときの根本的な態度の問題であって、場の問題ではない。こういうふうに、個人の内的な決断にかかわる問題を外的な場にすりかえるのが、現代というものの特質なんだ。そうしないと、商売にならないしね。



出会い(2)
2001年05月25日(金)

 「出会い」という言葉の魔力から醒めたきっかけは、「浅間山荘事件」だったかもしれない。赤軍派とよばれる過激マルクス主義者たちが浅間山荘というところにたてこもって武装闘争の訓練をしていたのがバレて、警察がその山荘を取り囲んで彼らを逮捕したのだが、その後わかったところでは、内部ではリンチ事件が多発していて、何人かの仲間を殺していた、というような事件だ。
 いわゆる「70年安保」の時代で、身の回りに大学紛争があって、ヘルメットをかぶったいわゆる「過激派」の友人もいたし、かぶっていなくても過激派に同情的な人々(当時の用語では「ノンセクト・ラジカル」といったっけ)の友人もいた。その人たちは、マルクス主義者でもあったけれど実存主義者でもあった。共産党系の「民生」は実存主義者じゃなかったが、過激派は多かれ少なかれ実存主義の影響を受けていた。つまり、「資本主義的な虚飾を捨てた、真にマルクス主義的な、人間と人間との無疎外な出会い」などというものを求めていた(この中には、もちろん性的な出会いも含まれていた)。夢多い時代だったんだね。私はマルクス主義者じゃなかったが、実存主義には結構かぶれていたので、民生とはまったく話が合わなかったが、過激派とはときどき話が合った。
 浅間山荘にたてこもった赤軍派だってそういう実存主義かぶれのマルクス主義者だったんだと思う。だからきっと、一緒に暮らすことから「マルクス主義的な真の出会い」が起こることを期待していたんだろう。しかし、実際に起こったことは仲間内での陰惨なリンチの連続で、決して人々が夢見た「出会い」ではなかった。
 浅間山荘は極限状態だったかもしれないが、もう少し安全な場所に過激派の「封鎖」があって、大学の一部の建物を占拠してそこで暮らしている人々がいた。それよりうんと安全な場所に、例えばクラブがあって、政治運動じゃなしに、もうちょっと穏健なことをテーマにして(例えば私の場合は合唱をネタにして)、やはり「真の出会い」を求めて、何だかたむろして暮らしていた。そこでも、浅間山荘ほどじゃないけれど、内輪もめやら仲間はずれやら総括やら自己批判やら、いろんなことがあって、どうしてみたところでユートピアにはならなかった。
 既成の価値観を否定することだけでもって人と人とが「直接に」出会うなどということは起こらない。かといって、新しい価値観を作ろうとしても、新しい価値観がたちまち既成の価値観に落ちぶれて、新しい因習になり束縛になり拘束になって、その中でしか人は生きることができない。「実存主義が言っていたのは単なる幻想なんだ。構造から抜け出ることはできないんだ」ってレヴィ・ストロースばりにわかったときに大人になったんだな、きっと。そのきっかけが、私の場合は浅間山荘事件で、それから「出会い」っていうのは胡散臭いぞと感じるようになったと思う。