生身の相手とつきあう
2001年03月09日(金)
ブロマイドは俳優を指し示す記号なのだが、ではその俳優とはいったい誰なのか。人は普通、俳優と個人的な関係を持ちたいとは思っていないので、例えば「理想の男性(あるいは女性)」を指し示す記号として使っているのではないか。生身の人間じゃなくて、文字どおりのアイドル(偶像)なのだ。
では、俳優のブロマイドではなくて、恋人の写真だったらどうか。写真は恋人を指し示す記号だが、では恋人は「理想の異性」を指し示す記号ではないのか。多くの場合、そうだという気がする。人は、息をしているその異性に恋をするのではなくて、仮想されたある異性に恋をするのだ。
人間が記号として使われる。つまり、人間が人間として扱われない。これは悲惨な事態だ。なぜなら、人間は死んだ記号ではなくて生きた人間であって、恋人も人としての身体と精神の営みを持っているのだから。そういう恋人と、人は愛し合わなければならないのだ。死んだ記号と愛し合うのではなくてね。
ときどき結婚式に呼ばれて、しかもスピーチを頼まれたりする。私は、次のようなことを言う。「花婿さんはなかなかの美男ですが、そのうちタレ流しの痴呆老人になるかもしれません。花嫁さんもなかなかの美女ですが、ある日、揚げ物の油がひっくりかえって全身火傷でふた目と見られぬ姿になるかもしれません。それでもあなた方は愛し合って暮らせますか。もしそうでないなら、今すぐ別れたほうがいい」。
自分の意思で生きていて、私の願いどおりには行動してくれないし、やがて病と老と死でもって望ましくない方向に変容していく異性と、人間と人間として向かい合うことは、これは気迫がいるよ。でも、男女関係だけじゃなくて、親子関係でも交友関係でも、人間を記号として取り扱わないということは、真剣に考えてみないといけないことだと思う。
現実と仮想の混同としての偶像崇拝
2001年03月10日(土)
エーリッヒ・フロムは、ユダヤ教の偶像崇拝禁止とマルクスの物神崇拝批判とは関係があると言う。被造物である偶像に人間をぬかづかせることと、被造物である財産に人間をぬかづかせることの構造が同じだというのだ。財産のような物的なものだけではなくて、法律や制度なども被造物だから、それらが人間を使ってはいけないので、人間がそれらを使わなければならないのだという。国家だって被造物で、だから「国のために死ね」などと言ってはいけないのだ。
フロムの論証は、なかなか迫力があるが、マルクス主義者でユダヤ人だったフロムが、自分が信じる2つのものを関係づけようとして思いついた理屈なので、マルクス主義者でもなければユダヤ人でもない私にはちょっとピンとこないところがある。同じ偶像崇拝からの脱却の話をしていても、フロムと私とは視点が違うのだ。
仏像の話だと、仏像は仏を指し示す記号にすぎず、だから別に尊くない、ということだった。じゃあ、財産は何を指し示す記号なのか、法律や制度は何を指し示す記号なのか、国家は何を指し示す記号なのか。普通、それらは記号としては使用されていないんじゃないか。だから、偶像じゃないんだ。まあ、これは一般論で、例えば戦前に国体と呼ばれていたものは、ある神聖なものを指し示す記号だったし、今でもアメリカでは、合衆国というのはある神聖なものへの記号である気がする。そういうことはあるが、現代の日本人にとって国家は、寺山修二が言ったように、そのために死ぬほどのものではない。
つまり、国家が記号として使われないのが正常な状態で、国家が記号として使われると異常なことが起こる。それは、恋人の場合と同じだ。恋人が「理想の異性」を指し示す記号として使われると不幸が起こるし、記号として使われないで人間として認知されると、もうちょっとましなことが起こる。
それじゃフロムとちっとも違わないじゃないかと言う人もいるかもしれない。違うんだよ。フロムはヒューマニスト(人間絶対主義者)で、彼にとって、人間というものはきわめて特殊に崇高なものだったのだ。だから、彼は記号と人間の比較をしていて、人間をとって記号をとるべきでないと言っていた。「国家が人間を使うのではなく、人間が国家を使うべきだ」というのは、そういう意味だ。
しかし、ユダヤ教徒ではない私にとって、人間は別に崇高なものではない。仏教的な認識では、人間は不浄なものだ。まあ、不浄はひどいにしても、愚行もするし排泄もする存在であることは確かだ。崇高と言うほど大したものじゃないし、ライオンやテントウムシに比べて特に優れているものでもない。
だから、私にとって、人間が問題なのではなくて、現実認識が問題なのだ。バーミヤンの仏像が記号でなくなればただの石だったように、国家も記号でなければただの約束事で、それらを何か尊いものを指し示す記号として使うのは、必要なときにはそうしても悪くはないが、所詮は1つの仮想(フィクション)であるにすぎないと、私は言っている。仮想は、便利であれば使ってもいいが、仮想であることを忘れてはいけない。偶像崇拝は、記号が仮想であることを忘れて、現実だと思い込むことだ。そうなると、現実認識ができていないわけで、人は判断を誤る。私が言っているのはそういうことだ。この論証には、「人間はかけがえなく尊い」というヒューマニズム的前提が必要ない。
ところで、今日は私の53回目の誕生日だ。