生きる権利
2001年02月07日(水)
医者のくせに、医療に関して、私はきわめて保守的で、遺伝子治療にも臓器移植にも体外受精にも極端な延命処置にも反対だ。しかし、そういうことを大きな声で主張すると、「子どもがほしい親の気持ちがわかっていない」だの「移植さえすれば助かるのに、見殺しにしろと言うのか」だの「生きる権利はどうなるんだ」だのといった非難の大合唱にあうだろう。だから、コソッと小さな声で言うだけにしている。
私が非難されるのは当然だ。文化的自明性に反したことを言っているのだから。現代の日本の大衆は、ある主張たちを「当然のこと」として受け入れている。例えば、「人間には生きる権利がある」とか「人の命は何としても救うべきだ」とかいうような主張だ。しかし、よくよく考えてみると、これは、大して根拠のない信念、ないし信仰だ。もっとも、その逆の、「人には必ずしも生きる権利があるわけではない」とか「ある場合には、人の命を救わないほうがいい」とかいうのも、大して根拠のない信念、ないし信仰であるにすぎないのだが。つまり、すべては相対的なんだ。
それらの信念のいずれが妥当かを決めるために、プラグマティックに判断するのが20世紀の流行だった。すなわち、ある信念を採用して行動した場合、その結果としてどういうことが起こるかを考え、さらにその起こったことが人類にとって有益か有害かを判断するということだ。これは、宗教の力を借りたりせずに、理性の力だけでもって倫理的な善悪を判断するわけだから、いかにも現代的だ。
ところが、ある時代以後、その判断がとても難しくなっている。例えば合成化学は、人類の生活を豊かにしてくれた。しかし一方で、ダイオキシンをはじめとする環境問題を引き起こした。問題は、合成化学が実用化された時点では、益のほうばかりが注目されて、害のほうはまったく予測できなかったことだ。別の例をあげると、交通網の整備だってそうで、確かに素晴らしく便利になったが、一方で、二酸化炭素による地球温暖化という、とんでもない問題を引き起こした。その他、交通事故だってあるし、暴走族だってあるし、東京や沖縄まで日帰り出張する悲哀もあるが。この場合も、当初、益ばかりが強調されて、害のほうはまったく考えられていなかった。
だから、現時点で、新しい医療技術について議論しても、もっぱら益のほうが大声で主張されて、害のほうには誰も思い至らない。特に、医療問題のように、害を怖れて新しい技術の導入をやめるように提案すると、ある人たちの生命を縮めることになるような場合には、たとえ害について思いついても、公然と語れないことになる。「非人道的」な話だからね。また、語れたとしても、すべての害を予測することができない。思いもよらない害に、あとで気がつくかもしれない。だから、プラグマティックな判断は、今ではもう不可能だと思う。
もし、「人には必ずしも生きる権利があるわけではない」と私が言うと、ある人たちは、生理的な嫌悪感を持つようで、感情的になって反論してくる。それを承知で、ちょっと理屈をこねさせていただく。
まず、「権利(right)」というのは法律用語であって、倫理や宗教の用語ではない。以前に紹介した、柳父章『翻訳語成立事情』(岩波新書)にも、「rightは、法によって与えられる意思、あるいは利益のこと」だと書いてある(p.162)。法が「生きる権利」を与えるのだから、ときに法は「生きる権利」を奪うこともある。死刑だの戦争だのということだ。法が生きる権利を与え、法が生きる権利を奪う。もし法が生きる権利を奪うと、権利は本来法が与えたものだから、法以外のものは生きる権利を与えてくれない。
「生得的な権利」という自然法的な考え方もないことはないけれど、それはきわめてキリスト教的で、その背後に聖書が隠れている。もしそうでないなら、まったく独断的で非理性的な主張になってしまう。生得的な生きる権利なるものがあるのだったら、生得的なお金持ちになる権利とか、生得的な異性にもてる権利だってありそうなものだ。どうして生きる権利は与えてくれて、他の権利は与えてくれないのか。
いずれにせよ、法は倫理ではない。だから、「生きる権利」という言い方をするなら、これは倫理的な問題ではなくなってしまう。今、現代医療について私がしようとしているのは、倫理的な話なので、「生きる権利」を根拠に反論するのはお門違いだと思う。
倫理の根拠は宗教的なものだと私は思っている。なぜそうなのかは、またいつか書くが。ともかく、今は宗教の話をする。
他の宗教は知らないので、仏教のことを考えてみる。仏教のことを「生命尊重思想」だという人があるが、いくらなんでもそれはないでしょう。『ジャータカ』だの『大智度論』だのを読むと、お釈迦様が前世に他者を助けるために自分の命を犠牲にした話がいくらでも出てくる。法華経にも「不惜身命」と書いてあるし、自分の身体に火をつけて仏を供養する菩薩様の話も出てくる。実際に、ベトナム戦争のとき、法華経の教えに従って焼身自殺した僧侶がたくさんいた。その結果、たくさんの人命を救ったと思う。いずれにせよ、生命に執着することが、すなわち苦の原因なのだから、生命への執着を断たなければいけない。つまり、生命軽視思想なんだ。
もっとも、これは、自分の生命のことであって、他者の生命を断つのは「殺生(せっしょう)」だから、してはいけないことになっている。仏教のことを「生命尊重思想」だというのは、この点を言っているのだと思う。ここが仏教の面白いところで、自分の話と他人の話は別なんだ。倫理が、ひたすら自らの決心として「私はこう生きよう」という言い方でだけ語られて、「あなたはこう生きるべきだ」とか「人はこう生きるべきだ」という話を一切しない。もちろん、ゴータマは、「あなた方はこう生きれば苦を解脱できる」と言うが、それは命令法ではなくて提案で、われわれがそれを自分の生き方として受け入れるかどうかを決めるのだ。
だから、「私は殺生をしない」という決心はするが、そのことは、「人は生きる権利がある」という意味ではない。ひたすら私個人の課題として殺生をしないのであって、相手がどうだかは関係がないのだ。だから、私は臓器移植を受けないが、人が私の臓器を欲しがるならあげてもいい。けれど、「人は臓器移植を受ける権利がある」とは思っていないし、「臓器移植はいいことだ」とも思っていないし、さらには「生きていることはいいことだ」とも思っていない。むしろ、「生命に執着して、お気の毒に」と思うかもしれない。
ともあれ、臓器移植だの遺伝子操作だのクローン人間だの、自然からあまりにもかけ離れたことをすることには、賛成じゃない。死ぬべきときには死ぬことだよ。おっと、これは私自身に言ったので、患者さんに向かって言っているんじゃありませんよ。不殺生ですからね。