Q653 死刑
 (連続幼女殺害事件被告の)宮崎勤さんが死刑判決が出ましたが、凶悪犯も学べるのだとしたら、死刑にしなくていいんじゃないでしょうか。人がみんな平等で五十歩百歩なら死刑は傲慢じゃないでしょうか?

A653
 どうでしょうかねえ?これも僕の専門範囲外で、専門範囲外で言っていることは無責任で言っていますから、あんまり本気でとらないでね。現代の国家のシステムというのは、国家が暴力を振るう権利を持って、国民が暴力を振るう権利を奪うんですね。国家というのは基本的に「暴力装置」なんです。江戸幕府も暴力装置だったし、明治政府も暴力装置で、今のわれわれの国家も暴力装置で、ロシアも暴力装置でアメリカも暴力装置なんです。暴力は大きく3つの方向で使われます。1つは軍隊ね。外国からの敵に対して暴力を振るいます。もう1つは警察ね。警察と司法機関が暴力を振るい、もう1つは裁判所が暴力の裏付けをするわけですよ。暴力というのは別に殴らなくても、例えば身柄拘束をするとか、あるいは逮捕するとか、それから拘留するとか、刑務所へ入れるとか、例えば死刑にするとか、暴力を振るうということ自体は、これはどうしようもなく認めているんです。国家が暴力装置で、暴力装置である国家に暴力を集中しないと、民衆がリンチをするわけ。民衆が暴力を振るう権利を一切否定しておいて、国家が暴力を振るえるようにしたのが、これが近代国家なんです。だから、死刑にしようが終身刑にしようが五十歩百歩なんです、暴力装置だという点では。死刑がガス室であろうが絞死刑であろうが、公開鞭打ち刑であろうが車折(ざ)きであろうが五十歩百歩なんです、国家が暴力装置であるという点では。だから、それは時代の相談の中で決めていかないとしょうがないと思う。でも、一番根底にある、国家が暴力を所有していることだけは否定できないと思う。僕たちから見て一番醜いのは暴力装置というのは国家なんです。70年安保世代としては暴力装置としての国家には恨み骨髄なんです。だから暴力装置としての国家を解体したい。そんなものなしで生きられる世界を造りたいんです。僕は基本的にはアナーキストですから。でも今のところは、暴力装置である国家がなければ生きられないくらい民衆の意識が低い。みんなが道徳を守って生きていくだけの力がない。そうなると、暴力装置である国家を認めないとしょうがない。暴力装置である国家がどの程度の刑罰をするかは、些末な問題です。暴力装置の国家そのものに比べれば、ごく微少な問題だと思うから、どっちでもよろしい。宮崎さんを殺してもよろしいし、生かしてもよろしい。昔みたいに島流しにしてもよろしい。何してもよろしい。残念ながら死刑以外にあんまり良い判決はないんですよ。平安時代というのは死刑はほとんどなかったんです。死刑が初めて復活するのは源平の戦のころですから、そこまでは京都へ遷都されて以来、お公家さんたちは汚れを嫌いますので、人を殺すと汚れるじゃないですか。だから死刑しないで、みな島流ししたんです。八丈島とか佐渡とかへ流したんですけど、このごろ八丈島も佐渡も流刑地としての迫力がないじゃない。「あんたは今日から佐渡へ送ります。佐渡から一歩も外へ出てはいけません」と言ってもちっとも刑罰にならない。この間までソビエト連邦はシベリアへ流刑していて、だからソ連は一時死刑なしでいけていました。裏で銃殺していましたけどね。では、シベリアへ流刑して、もの凄い寒い土地で強制労働させるのと、あっさり死刑にするのとどっちが楽かというと、どっちもどっちやで。要は国家が暴力を集中しているということそのものを根源的に取ったほうがいいんじゃない?宮崎さんを死刑にするかどうかというような表層レベルで話をしないで。