19,季康子、政を孔子に問いて曰く。如(も)し無道を殺して以て有道を就(な)さば何如(いかん)。孔子対(こた)えて曰く、子、政を為すに焉(いずくん)ぞ殺すを用いん。子、善を欲すれば民善なり。君子の徳は風、小人の徳は草。草、之れに風を上(くわ)うれば、必ず偃(ふ)す。

 季康子が政治を孔子にたずねられた。「道徳のない不正な行為をする者を死刑にし、道徳のある正しい者を援助するのはどうだろうか?」。孔子はお答えした。「あなたは政治をなさったいるのです。それをどうして、殺害、人命を絶つ、という方法を用いるのですか。あなたが、善を欲すれば、人民も善になる。為政者の徳というのは風のようなもので、人民の徳というのは草のようなものです。草に風が吹けば、きっとなびきます」。

※浩→君子の善政と倫理による「人民の啓蒙教化」を、君子の徳を「風」、人民の徳を「草」とするメタファーの物語で語っています。孔子は、民草(たみぐさ)である人民を正しい方向に教導するのが君子の役目であると考えていたのです。吉川幸次郎先生は、「子、政を為すに、焉んぞ殺すを用いん」は、永遠の真理である、と書かれています。
 「無道」は、古くは「不道徳なもの」と訳してきましたが、漢代には「不法行為」であって単なる不道徳ではない、と考えられたそうです。季康子は、盗賊が多く、社会の治安が悪化したのに堪えかね、刑法を改正し、不法行為をなす者は一律に死刑に処し、一方で、律儀なお百姓にはほうびを与えて、善行を奨励するという、法律万能主義(賞罰主義)をとろうとしました。孔子は、それに反対して、政治家自身の姿勢を正すことが第一だとしました。アドラー心理学でも賞罰には反対です。それは「勇気をくじく」からです。生来の「共同体感覚」を育児・教育を通じて育成していき、共同体・社会にとって有益な人格を育てようとしています。今の政治家・官僚諸氏は、自己執着の権化のように見えることがあります。日本は「法治国家」で「法治主義」のはずですが、理想的な「法の支配」がまだまだ実践されているとは思えません。「(一部特定の人の)法による支配」が行われています。戦前の反省から、「個人の権利が抑圧されたり損なわれたりすることを極端に避けようとするのか、「公共の福祉のためにしばらく個人の欲望を抑制しましょう」と提案はできなかったのでしょうか。コロナのときにも。
 「日本国憲法」に、国民の権利は“公共の福祉に反しない限り……”とあります。
第十三条【個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重】
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
 今後、憲法改正があっても、この条項は残るでしょう。