10,子張、徳を崇(たか)くし惑(まど)いを弁(わきま)えんことを問う。子曰く、忠信を主とし義に徒(うつ)るは、徳を崇くするなり。これを愛してその生きんことを欲し、これを悪(にく)んでその死なんことをを欲す。既にその生きんことを欲し、またその死なんことを欲す。これ惑いなり。

 子張が、「徳を崇くし惑いを弁えん」という言葉の意味を質問した。先生がお答えになった。「忠義と誠実がある人間と交流して、正義に近づくことが徳をたっとぶことである。愛するときにはその人の長生を願いながら、いったん憎悪するとその人の死を願う者がある。このように、かつてはその人の生を願いながら、その人の死を願うというのが惑いなのである。(それを弁別しないといけない)」。

※浩→「徳を崇敬して、惑いを弁ずる」という古来から伝わる諺の意味を子張に問われた孔子は、愛欲と憎悪の二律背反(アンビバレンス)についてわかりやすく解説しています。なお、「崇徳」、すなわち「徳を崇くする」とは、ここでは「有徳者を尊崇する」ことと訳していますが、「自分の道徳を増進する」ことという説もあります。吉川幸次郎先生は、そちらを採用されます。忠実と信義を自己の行為の中心とし、義(ただし)きものを聞けば、そのほうへとわが身を近づける。それが道徳の推進であると。貝塚先生は、「忠信を主とし己に如かざる者を友とするなかれ」という「学而篇」との関連を考慮されてか、「有徳者を尊崇する」ほうを採用されています。
 「弁惑」の「惑い」は自分が無自覚に犯す矛盾を意味し、「弁ずる」はそれを弁別発見し、かつ除去する意味です。このことについては、吉川先生の解説がわかりやすいです。人間は感情の動物であるとはいえ、感情にかられて、ある人が好きになれば生きてほしいと思い、嫌いになれば死ねばよいと思う。一方では生存を欲する気持ちがありながら、一方では死を欲する、それこそ矛盾であると。フロイトの「エロス」は“生の本能”で「タナトス」は“死の本能”です。「生と死」を相矛盾するものとして分けて捉えるのが普通のようですが、「弁証法」的に考えると、ものごとは運動・変化・発展していくもので、生死は一貫した流れであるとも考えられます。このほうが現実的でしょうか。愛も憎しみもどちらも相手への関心があることでは一致します。ですから、愛の反対は憎しみではなく、「無関心」ということになります。アドラー心理学で言われる「共同体感覚」は「相手の関心への関心」を持つことですから、これを「愛の態度」だとすれば、その反対は「相手への無関心」ということになるでしょう。そういえば、例の愛に関する名著、フロムの『愛するということ』によれば、「愛の能動的性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。あらゆる形の愛に共通して、からなずいくつかの基本的な要素が見られるという事実にも愛の能動的性質があらわれている。その要素とは、配慮、責任、尊敬、知である」とあります。ここで言われる「配慮」こそ相手への関心です。
 もう1つ、「弁別」ということにかんしては、野田先生から「分類」と対比して考えることを教えていただきました。「分類」は価値判断を伴わない、ただの仕分けで、「弁別」は価値判断を伴います。これには深く納得しました。人の行為にムカついたときは、必ずその行為の価値判断をしています。ですから、ただニュートラルに「ああ、あの人はこういうことをする人なんだな」と「分類」にとどめておけば、こちらの感情は動きません。