荒れた学校を立て直した事例に学ぶ


1,教育の目ざす「4つのS (R) 」
<尊敬>Respect
<責任>Responsibility
<生活力>Resourcefulness
<社会性>Responsiveness


2,学校はサービス業
 ある日、野田俊作先生の父上(町医者:“患者を家で殺そう”と往診医療を続けられて、先年亡くなられた)曰く。「医者は業種分類で言うと何か?」。野田先生「自由業だろう。弁護士が自由業だから」。父上「違う。医者はサービス業だ。昔から、医者・芸者・幇間(太鼓持ち)と言う」。
 学校教育もサービス業だと思う。先生方にはあまりサービスという概念がない。
 サービス業というのは、顧客のニーズに応じた供給をすること。
 お客さんは誰か。生徒と親と国家・社会。
 お客である生徒にぞんざいな口をきいてはいけない。朝早くから出てきている。来ない生徒に「なんで来ない?」と言ってはいけない。来た生徒に、校長以下職員は校門に立って挨拶するといい。「今日も早くから来てくれてありがとう」。1日授業を聞いてくれたら、「つまらない授業を聞いてくれてありがとうございました」と感謝する。1日あの固い椅子に座って授業聞いてごらんなさい。生徒は凄いと思えるから。これがサービス業の基本的心得です。
 親もお客です。親のニーズは義務教育なら、たぶん託児してくれることでしょうが、高校生だと何でしょう?保護者懇談で確認しましょうか。
 国家・社会のニーズもあります。「教育基本法」にあるように、民主的な国家を維持できるような最低限の知識・技術を身につけた人材を養成してほしい。
 企業からのニーズは満たされていないみたいで、「大学を出た子をすぐ使えない」と企業は言う。再教育しないといけない。


3,荒れた学校の建て直し
<荒れた学校はどうすればいいか?>
 ある中学の教頭さんから「校内暴力がある荒れた学校はどうすればいいか?」という質問を受けた野田先生は「それは管理職の無能によるから、校長をクビにすること」だと答えた。「そうもいかない」。「それなら一点豪華主義、一点突破全面勝利作戦だ。あれもこれも手を出すから駄目なので、暴力をなくすなら暴力をなくすことだけに集中する。タバコを吸っていようが服装違反をしていようが、暴力をなくすことに集中する。そうしないとエネルギーが拡散して駄目だ」と答えました。

<授業が成り立つように>
 学校の本業は授業するところ。子どもたちは塾には喜んで行く。学校はあまり喜んで行かない。登校拒否の子も塾へ行く子がたくさんいる。塾は生活指導がないから。
 ということは学校はいらんことをしている。授業をしっかりやっていればいい。服装や髪型で勉強できるかできないかは決まらない。今までのような生活指導はいらないのじゃないか。


4,クラス作りのコツ
<あなた私ペアで考える>
 臨床心理学がの新しい考え方。「私という人間」が存在するように思うけど、本当は「私というもの」はいない。「私-あなた」のペアでやっと人間です。
 例えば、学校で暴れている子どもがいると、心理学者は「この子には粗暴性がある」と言う。先生も「あの子は暴力的で粗暴性が高い」と、心理学者に騙されて思う。でも、家ではおとなしくていい子。学校で暴れる。「なぜ家では暴れないのか?」「家では粗暴性が隠れている」と言う。逆に考えると、家では温厚性があるのに、その温厚性が学校では隠れているとなぜ言わないか。気に入らないものに名前をつけるんです。根気がないとか集中力がないとか。集中力がないのは散漫力があるし、忍耐力がないなら断念力はある。何かこっちの気に入らないものに名前をつける。それは、子どもというものが独立してあって、今ここで暴れている子どもは、粗暴性を抱えてずっと暮らしていると考えるからです。
 私とこの子の間に粗暴というものがある。コミュニケーションの構造の中にある。子どもの頭蓋骨の中にあるのでない。私と彼の関係の中にある。先生だって、職員室にいるときと、うちへ帰って恐いかーちゃんの前に、無気力なとーちゃんの前いるときとは、違う人格になっている。人格、性格って、そんなものはひとりでは存在しない。存在するのは、今ここにこの人の前にいる私、私の前にいるこの人が存在し、私とこの人のかかわりが存在する。相手が替わったとたんにすっかり変わってしまう。
 人間というのはほんとに“人と人の間”です。人と人との間に人格が存在している。2人組。
 授業しているとき、教師は一度に1人の生徒としか関係を持てない。「皆さん」と言ったら誰も聞かない。ある人を向いて「鈴木君どうですか」と言うと聞く。他の人は「どうして私のほうを向かないのか」と思って、聞く。瞬間瞬間に2人の人間との関係しか結べない。個別授業があるのであって、一斉授業はほんとは存在しない。瞬間瞬間の個別授業で、絶えず相手が移り変わっていく。
 授業が成り立っていない教室では、教師はある特定の子どもとのコミュニケーションに集中している。その子どもは、問題を起こしている子。聞いていない子。反抗している子。授業を妨害する子とのコミュニケーションの時間が圧倒的に長い。そうすると残り子たちは切り捨てられて、授業に参加できなくなる。いかにたくさんの子とつながっているか。特に問題を起こしていない子と。放っといても積極的に参加している子はつながれる。反抗的な子にもつながれる。残りの連中、こちらの出方次第で変わる子とどれくらい積極的に関わっているか。1時間にどれくらいの人数と、どっかに偏らないでコミュニケーションしているか。クラス全体に対する働きかけがあるわけではない。
 カウンセリングの創始者・ロジャースが言った。カウンセラー教育には「2:7:1の法則」がある。10人のうち2人は何も教えなくてもカウンセラーになれる。教えなくても初めから才能がある。1人は何をやってもなれない。残り7人は教師次第。それはありとあらゆるところで成り立つ法則。クラスの中のに2割は教師が言わなくても勉強好き。1割は自然の状態で勉強イヤ。残り7割はこちらのかかわり方次第で変わる。
 しかして教師はまずは一番駄目な「1」と関わりたがる。生活指導ということで、問題のある子に徹底的にエネルギーを注ぎ込む。100匹の羊のうちいなくなった1匹を探しに行く。その間に99匹は狼のご飯になる。勉強が良くできる「2」とも関わる。残り「7」と関わることが少ない。それは、人間の2人組を意識していないから。
 いつも1対1しか関われない。2人組で人間は定義される。
 暴力というものも、2人組で定義される。ある子が私に向かって暴力をふるうなら、私とその子の間に暴力的な構造がある。どんなものか。それは上下の「縦の関係」。たぶんこっちが上で向こうが下で、その関係を覆そうとして向こうが暴力をふるって、上になろうとしている。対等の「横の関係」ではない。人間が人間としてつきあっている関係ではない。教師が生徒につきあっている関係。支配者が服従者につきあっている感じ。教師が生徒とつきあうのと人間が人間につきあうことと一緒じゃないといけないのに、一緒じゃなくなっている。役割が着物を着て歩いている。
 ある先生の会合で野田先生が「制服はなぜいるか?」と聞いた。「小学生も大学生も制服がなくても勉強するのに、中高生はどうか?」と聞くと、あれは、学校外での素行の取り締まりと関係がある管理上の都合だそうです。自分の学校の生徒かよその生徒か識別できる。自分の学校の生徒なら「こらこら」と注意する。よその学校の生徒なら口を出さない。それはおかしい。学校から出たら教師だとか生徒だとかはない。市民と市民です。「1人の市民として、変なことをしている子どもに声をかける勇気はないんですか?」「ない」。
 教師という鎧をつけないとつきあえない間は、縦の関係があって、それに対して生徒は「私はあなたに支配されない」というメッセージとして、ある場合には暴力を用いる。これに対して教師が暴力で報いる。子どもが反抗しないのにいきなり殴る教師はこの世に絶対にいない。そこには縦の関係があり、どっちが上かを決める権力闘争があって、権力闘争に打ち勝つための手段として暴力が現れる。現れてくる暴力は、教師に粗暴性があるのではない。生徒に粗暴性があるのでもない。その生徒とその教師の関係の中に粗暴性がある。
 関係を変えれば両方の粗暴性がなくなる。ある先生にはなくなった。他の先生になくなるか。そうでもない。あの先生とは仲良くつきあえる。他の先生は殴ってやろうと思うかもしれない。
 立て直しに成功した学校が、うまくいってない学校に向かって、「職員室が変わらないと」「教師が変わらないと」と大きい声で言うと、責めているようになる。うまくいっていない学校の先生は、決して悪人でも無責任教師でもない。ただ勇気をくじかれていて、途方に暮れていた状態だった。そこから抜け出したいけど、抜け出す道筋を知らなかった。それは妙なことを学んで妙な性格になったからではなくて、正しいことを学ばなかったので、正しい行いができなかった。子どもだって、悪い子の影響を受けて悪くなるのではない。いいやり方を身につけるチャンスがなかったので、やむをえず悪いことをしている。教師もそうです。
 強圧的な指導を是認する先生と野田先生が、だいたいひと月くらい論争して、最後に、「信じなくていいから、自分のクラスで、できるところをちょっとやってみてください。何が起こるか見てください。そのあとで話し合いましょう」と言った。2,3か月してから、「うまくいくはずないと思ったのに、クラスが変わりました」と言う。体罰肯定論者とか強行指導肯定論者とか論陣を張るくらいだから、そういう先生は熱心な先生です。ただそれ以外の方法を知らなかった。
 人間は方法を知らないとき原始的な方法を使う。初めに「静かにしてくれませんか」と言って聞かないと、もっと強く「静かにしなさーい!」となって、それでも聞かないと「静かにしろって言ってるだろ!やかましいな」。しまいに怒鳴り散らす。これは子どもの発達のだんだん昔の段階に遡っている。最後は泣くだけという退行です。問題解決に失敗すると幼児的なやり方をしている。暴力的な教師は幼児的なやり方をしている。生徒もそうです。
 暴力的なコミュニケーション行動は、幼稚な原始的なコミュニケーション行動です。したがって、非暴力的に問題を解決するさまざまな技術を身につけていくと、成熟した知恵が生かせるようになる。子どものほうもそうです。教師が非暴力的に問題解決する方法を提示してくれて、「ああいうふうに言えば、感情的にならなくても要求を聞くし、相手の要求を聞きたくなる」ということを生徒も学んでくれると、エネルギーを使わなくてもよくなる。
 暴力的な構造を、どっちが支配者か服従者かという構造を持っていると、破壊的なことにエネルギーを使って、建設的なことにエネルギーが使えなくなる。
 教師だけ生徒だけの問題ではない。生徒との相性が悪い。両者の関係の問題。その関係を改善するのにもう一工夫いる。教育への情熱や愛を持っていない教師はいないだろう。
 車の片方の輪っかの「情熱」はある。もう1つの輪っかは「技術」。教育の世界では技術は軽視される感じがある。情熱だけだと同じところを回っている。自分が悪いと責めてはいけない。教師は自信を持たないといけない。
 勇気づけとよく言いますが、問題を起こしている人は勇気をくじかれている。人間はみんな正しく行動したい。今日より明日が幸せになりたい。みじめになりたいと願う人間はいない。大人も子どもも。みんなもっと幸せになりたい。向上したい。みんなとうまくやっていって、協力し合っていきたいけど、方法を知らないから迷路の壁にぶつかっている。戻ればいいのに押す。いくら押しても動かない。別の道をちゃんと教えてあげないと出る方法がない。教師には誰も教えてあげる人がいない。だから仕方なく問題を起こす。問題教師もそうで、どんな教師もいい教師になりたい。子どもたちと良い関係を持ちたい、尊敬されたい、尊敬したい。道筋を知らないから挫折して問題教師になる。
 2人関係の中でどうやったらこの人と良い関係を持てるか考える。「この子をどうやったら良い子にできるか」と思うから駄目。「どうやったら良い教師になれるか」考えるから駄目。1人1人の子どもについて、「この子と私との良い関係のために私には何ができるか」を考える。「この子とどうつきあうか」「この子に対して何ができるか」。
 人間には3つの構え方がある。「悪いあの人」「かわいそうな私」「私には何ができるか」。トラブルがあったら「悪いあの人」と言うか、「かわいそうな私」と言うか、それはひとまず措いておいて、で「私にできること」は何か考える。
 自分を責めることでもなく生徒を責めることでもなく、今この子と良い関係を持つには何をすればいいかを。この子を直す、この子を良くするのではなくて、関係を良くすることを。服装違反する子をどうしようではなくて、この子と私とが冷静に話し合えて、私の言うことを理解してもらえて、彼の言うことを理解できて、2人で協力的になれるような関係をどうやったら築けるかを。

<問題解決でなく解決構成>
 ただ問題を解決しようとしてはいけない。今これが問題あれが問題と列挙して、シラミつぶししても駄目。それはモグラ叩き。
 いったいどういう状態になればいいのかと先にできあがりを考える。
 スポーツでイメージトレーニングをします。「こういう運動が望ましい」というイメージを持っていることが、その運動ができるための大きな手助けになる。監督が練習を見ていて、いいところをパッと指摘する。「今のいい!」。
 関学アメフトの監督・武田健先生が、まったく弱いチームを、心理学の知識を使ってチームを強くする実験をした。それは、誤ったプレーには声をかけない。うまくいったとき、「それだ。今の感じ!」と声をかける。それだけしかしない。どうなったか。3年目に京大と日本一を争うようになった。
 解決のイメージ、何が正しい解決かを、まず教師が持つこと。そして子どもたちにも持ってもらうこと。問題をシラミつぶしになくしていくという考えから脱却していく。
 荒れている学校で、まず「授業が成り立つようにする」というのは解決イメージです。問題が全部なくなった。遅刻がなくなって、服装違反がなくなって、暴力がなくなって、窓ガラスが割れなくなって、問題行動がなくなった。それで何か起こったか。何も起こっていない。学校が墓場になるだけ。今存在しない授業が生き生きと動き始めるということが究極的な課題です。みんなそっちを忘れる。解決イメージを見失っている。問題をシラミつぶしにしていくことに夢中になる。するとやがて学校は墓場になる。問題行動もないけれど授業も成り立たない。
 いつも、「自分はどんな教師であるのか」、生徒の前に立ったときに、自分がすごくうまくふるまえている姿をイメージする。「この子は一番うまく動いたらどんな子になるか」をイメージする。あれが問題、これが問題を言わない。最終的にこんな子になってくれたらいいというのをイメージする。
 これの情報交換をする。教師から生徒に、「今の動き方がすごく良かった」とか言い合い、教師どうしも、「あの子このごろすごくたくさん手を挙げるようになった」とか言い合う。「あれ助かりました。参考になりました」と言い合う。
 学年別連絡票には問題のある子を書いている。問題のない、このごろ良くなっていること書かない。「誰々が居眠りしていた」と書く。「前居眠りしていた子が最近居眠りしない」は、普通あまり書かない。そうでなくて、解決に向かって、「不活発だ」も書いていいけど、「このごろ活発になってきた」も書いてほしい。それが職員間でも、「あの子最近居眠りしなくなりましたよ」と誰かが言って、「そう言えばそうですね」とわかれば、それは生徒にもひしひしと伝わっていく。
 問題が解決された姿、最終的にできあがった姿を、個人としてもイメージするし、2人関係の間で、教師と生徒の間でも情報を共有し合っていく。
 先生には職人気質の人が多い。自分と自分のクラス、自分と自分の生徒を閉鎖的な社会にして、自分の授業やクラス運営について自由にシェアしていかない傾向がある。昔は病院で医者もそうだった。今は、全体のチームの中で動かないと動かない。
 教育もそうで、学校は教育チーム。個人の教師のスタンドプレーばかりで成り立っていてはいけない。
 生活指導の面では比較的一枚岩になれる。学習のほうでどれだけチーム意識を持って、情報を交換・共有していくかが大事なこと。特に解決イメージについての情報の共有をどれだけしているか。「あれが問題だ」、「これがまだ残っている」という情報の共有でなく、「ここが良くなった」「ここをもっと良くしていこう」という情報の共有。
 問題が解決していくにつれて、暴力事件が多発していた時代には、廊下にゴミを捨てる子がいても何も何も言わなかった。当たり前だから。暴力がなくなる、窓ガラスも割れないようになると、ゴミ1つ落ちていても大問題。「どこどこにゴミが落ちていました」と、ズームアップして大問題になる。残っているものだだけ数えると、教師も生徒もある種の不全感を持って、まだ駄目だ、まだ足りないという不全間にさいなまれ続けることにきっとなる。
 問題がなくなったのなら、廊下がきれいになって、窓ガラスが割れなくて、暴力がなくなったのなら、残ったわずかのゴミにエネルギーを使うのでなく、もっと建設的なこと、もっと前向きなことにエネルギーを使っていくべき。
 プロの先生にはそういうことをめったに言ってくれる人がいない。
 教師は一生懸命だったらいいという感じを持ちやすい。一生懸命だったら能率が悪い。ボーッとしていて何もかもうまく動いているのが一番いい。医者でも名医はボーッとしている。何もしていないみたいで、そのくせ自分の入院患者の状態を全部知っている。ボーッとしていても耳が動いているから。まわりで言っていることを全部聞いている。初心者は動き回っていて、何も見えていない。動き回っていると、自分が能率的に動いているような錯覚に陥る。労働投資が多ければ収益が多いような気がする。そんなことはない。
 共通テストで成績が上がったら、収益が上がってきている。収益を上げることも大事だが、次は、教師の側の一生懸命を、投下資本をどれだけ減らすかがもっと大事。
 テストのメリットは、1つは、生徒が自分のどこがわかってどこがわかってないか知ることができる。2つは、担任が、どこの教え方がますかったか、どこがうまく教えられたか、どこを修正しなければいけないかを知ることができる。クラスの多くの子ができていないなら、教師の側の教え方が悪い。クラス全体の平均点が悪いなら、転職を考えたほうがいいかもしれない。テストは望ましいことではないが、教育の収益を数字で表す方法。テストの点は生徒にもついているが、それ以上に実は教師にもついている。ある問題をみんなできなかったのなら、これは考えないといけない。平均点が悪かったら、根本的に授業の仕方に問題があるんではないか考えていかないといけない。上げていくのに、しかも無駄な動きをしない。効率良く自分の時間を十分作って、カリカリと真夜中まで勉強しないで、能率を上げないといけない。一生懸命だからいいというわけではない。
 生活指導に関しても。解決イメージをしっかり持てばいい。山の頂上がどっちへあるか知っている人は頂上に着く。知らないと、あっちへ行きこっちへ行き、ひょっとしたら着くかもしれない。迷うかもしれない。教育は生徒を旅行に連れていくようなもの。月の世界へ、知識の世界へ。目的地を知っていないと添乗員としては困る。どんなことを学んでもらいたいのか、自分はどんな教師でありたいのか、この学校はどんなふうでありたいのか、絶えず考える。解決を。それを絶えず情報交換する。

<単純作業だから楽しむこと>
 座禅語録から。「仏教の究極の秘訣は何か?」と師匠に聞いた人がいる。お師匠様は、「それはな、悪いことをせずにいいことをするんじゃよ」。「馬鹿にするな。そんなことは3つの子どもでも知っている」。「そうだ。3つの子どもでも知っているけど、80のジジイでもできないんだよ」。
 学校は美しい言葉を並べるのが好き。「何とか的何とかの向上」。なるほどと思うが、それを実行するのは、理念とはまったく別の次元に問題で、とてもくだらない地味な仕事です。毎日のコツコツなんです。その毎日のコツコツをやっていくしかない。
 原稿500枚書く方法は1個しかない。最初の1文字書く。次の1文字書く。さらに1文字書く。気がついたら500枚書けている。
 目標を達成するのはそういうことです。美しい目標はすぐに立つ。「すべての悪いことをせず、すべての良いことをしよう」。それを実践するには、右足を一歩出して地面に着いたら、次に左足を一歩出す。それが地面に着いたら次の一歩を出していくやり方しかない。それしかない。それを楽しんでやってほしい。
 どうしてもしなければならないことがあるときに、われわれにはまだ選べる。「するかしないか」は選べない。そのときに選べるのは、「楽しんでするかイヤイヤするか」は選べる。教育実践をどれだけ楽しむかということ。
 「すべての生徒を愛しよう」はウソ。「あの餓鬼殺してやろう」と思うことがある。きれいごとでは教育は成り立たない。「あいつさえいなければ」という子が絶対いるんです。どうすることもできない。せめていい関係を持とう、それもすぐにはいかん。そのときに、その子が存在する賑やかなハチャメチャなクラスをいかに楽しむかということは、工夫し始められる。楽して楽しんで給料もらう。これが公務員生活のコツで、できるだけ手抜きすること。できるだけ楽しむこと。しかも能率を挙げる。そこに科学の進歩がある。科学を進歩させたのはそういう人たち。たくさん働かないで寝て暮らせる世界をイメージした。教師もそう。
 教育に今ものすごい手をかけている。あまり手をかけなくていいようにしたい。とにかくエンジョイする。野田先生も昔つらかったことがあった。そのときに壁に「エンジョイ」と書いておいた。毎朝がっかりして起きる。壁に「エンジョイ」。「そうだ、エンジョイしよう」。

まとめ:
 相手もいなけりゃ自分もいない。あるのは「関係」だけ。触れるのは「関係」だけ。この子と私の関係をどうやって良くするか。この子をじゃなくて、私をじゃなくて。1人1人の「個」に迫る。目の動かし方にしても、1人1人の子どもに、1時間に全員の顔を見たなという授業する。
 問題をなくするのじゃなくて、できあがりをイメージする。足りないところでなく足りているところに絶えず注目する。雑草を抜くのでなく花を大きく育てる。
 結局、地味なコツコツとした仕事です。だからできるだけ楽しむ。そうやって働いていくと、暴力やいじめなどが介在する余地はない。教師の肯定的な面が発揮されてくる。子どもの肯定的な面が発揮されてくる。そうやって、教育の目標である「4つのS」が達成されていって、学校は、子どもと親と国家社会という顧客のニードを満たすことができるでしょう。